もう既に人の役に立っていた
人の役に立ちたいというフレーズはよく聞きます。僕もそのようなことを考えたり行ったりしていました。
でも、もう既に人の役に立っているということを最近になって認識しています。
人の役に立ちたいというフレーズの奥には自分は人の役に立っていないという意味が込められています。
ですが、本当にそうでしょうか。日常生活を振り返ると「ありがとう」と言われることはないでしょうか。
電車で席を譲ったら「ありがとう」
スーパーのレジで「ありがとう」
道端で人に道を訊かれ「ありがとう」
街頭で配っているティッシュを受け取って「ありがとう」
等々・・・
普通に生活しているだけでも「ありがとう」と言われることは沢山ありますよね。
でも人の役に立っていないと認識してしまうのは、日々の「ありがとう」の多くが当たり前として右から左へ抜けています。
お店でご飯を食べて「ありがとうございました!」と言われるのは本当に有り難いからではないでしょうか。
お店にお金を出してご飯を食べてくれることでお店の存続に貢献しているから有り難い。
お店が出すご飯を美味しく食べてくれているのが嬉しくて有り難い。有り難い要素は様々です。
だから、お店の人に「ありがとうございます!」と言われたら素直に役に立ったのだと認識した方が良い気持ちですよ。商売だから言っているとか わざわざ曲解しなくて良いではないですか。
更に言えば「ありがとう」と言われなくても生きている人は皆 誰かのために何かしら役に立っていると思います。
例えば、赤ちゃんも家族など周りの人に安らぎや癒しを与えてくれますよね。
逆に自分の苦手な知り合いも「自分はああなりたくない」と反面教師となり奮発するきっかけを与えてくれます。
このように皆が誰かの役に立っていて異なるのは其々の役割のみです。どんな役割として人の役に立つかの違いですね。
よって皆既に役に立っているのだから、単に「役に立ちたい」でなく「どんな役割で役に立ちたいか」を考えてみたら良いと思います。
くまえ ひでき