青いクマが大好きなモノに囲まれて暮らすために通った跡

青いクマ〈未熟なくまえ〉が大好きなモノに囲まれて暮らすために自立を目指した課程の跡(記録)です。今を生きる人間としてその生き様を通して何かしら良いきっかけを与えられたらと思いこのブログを始めました。

挨拶は「したい」からやる

​​挨拶は自分の意思で「したい」からやるので自分も相手も気持ち良くなるのだと思いますよ。 


僕が定期的に行っているゴミ拾いは始めた初期は道端のゴミを拾うと同時に、すれ違う通行人にも挨拶しましょうと唱えて実際に実行していました。


しかし、今はゴミ拾い時、通行人に意識して挨拶はしておりません。というよりも、いつの間にか通行人に挨拶しようという方針自体を忘れて黙々をゴミを拾っています。


忘れてしまうほど、知らない通行人に挨拶することは「したい」ことではなかったみたいです。 


あ、別に挨拶自体を否定しているわけではありませんよ。「しないといけない」からやるのと「したい」からやるのでは相手に伝わるものが違うということを言いたいです。


だから無闇にやらないのではなく、やりたかったら勝手にやることにしています。


挨拶すると周りの人たちとのコミュニケーションを円滑にしたり、仲を深めるきっかけになったり良いことばかりですよね。


しかし、だからといって挨拶はいつでも誰にでもするべきことだと強要してしまうと単なる味気ないルーティン作業になってしまうのですよね。 周囲との関係性を深めるきっかけにはなりません。 


また、僕のゴミ拾いの場合は自分の意思で済ませることはできますが、職場などのコミュニティ内に属する時ではそんなこと言ってられない場面が多いです。


では、気持ちが伴わなくても形だけでもやった方がマシなのか。と言われると形だけでもやった方がマシだと思います。


形式だけを繰り返していくうちに味気無さや無味乾燥のルーティン作業にうんざりしてきます。そんな状態に陥ると気持ちの良い挨拶を求めだします。


その時に「しないといけない」から「したい」に切り替わり、相手との関係性を深められるような挨拶を自分の意思で始められるようになります。


更にやりたくて挨拶しても相手によっては無視されたり反応が薄かったりすることも時にはあります。でも、その挨拶は「したい」と自分の意思でやっていることだから落ち込んだり相手を責める必要はありません。相手の反応が芳しくないのは相手の都合の話であって、自分は自分の意思のままに動けているのだから気にしなくて良いと思います。


挨拶は老若男女誰にでもできて、誰にでも挨拶する機会は日常の場面に無数にあります。


それを不本意にやらないといけない行為としてやるのは苦痛ではありませんか。だから僕は挨拶するときは自分の意思で「したい」行為として行ってみます。そのような態度は人に伝わりますから、自分の意思で行う挨拶なら受け取る相手も心地よいものでしょう。