誰かのため=自分のため
特定の相手のことを思って自分を変えるのは、自分を大事にできている証だと思う。
没頭できるモノがあることは豊かなことだ。
今夏からお付き合いをさせていただいている恋人の存在は僕にとって非常に大きな存在なようだ。
今、僕は恋人から愛想を尽かされることが一番怖い。人の存在の影響力は大きい。
手放されるのが怖くなるほど夢中になれる恋人の存在を感じれる僕は人として本当に幸せな者だと思う。
人がたくさんいる街中では僕を手をつなぐことを恥ずかしがってくる。僕と恋人関係であることを周囲に公開することを躊躇しているのだろう。
とは言っても、恋人が照れ屋だとか恋人の問題ではない。僕が恋人にとって周囲に自慢したくなるような存在に到達していないことが問題だと僕は考えている。
もし恋人が今の自分に物足りなさを感じていてもお付き合いしてくれるのは僕が成長を続けてより、良い幸せをもたらすだろうと期待をしてくれているからではないか。そう僕は勝手に考えている。その期待は裏切れない。
ただ、こんなことを言うと「自分の意思を押し殺して相手に迎合しているだけ」「自分を見失っているのでは」と思う人もいるかもしれない。
そうではない。お付き合いしてくれるから今のままで良いのではない。
恋人が僕を周囲に自慢したくなるような気持ちになったら人として更に次の次元の幸せを一緒に味わえるのではないだろうか。
例えば、車を運転できるようになりたいと念じているだけでは運転できるようにはならない。勉強して何度も練習しないと運転できる状態にはならない。
今の自分から新しい自分に変わることは必要なんだ。彼女の期待に応えることが僕が自分への期待に応えることにもなる。
僕は彼女の見ている世界にもっと奥に入り込んで一緒に味わいたい。
くまえひでき
物事にそもそも価値は無い
物事の価値は人各々が自分の価値判断により勝手に後から付けたものだから。
そう考えると僕らは様々な物事に価値を見いだしていることに気付く。
最近、不登校youtuberのゆたぼんに関する記事を読んで鼓舞された。
小学生で10歳のゆたぼんは学校に通う必要性を感じなくて学校に行かなくなったらしい。
そしてYouTubeでは不登校は不幸じゃないと主張をして圧倒的な低評価数、コメント欄は「学校に行け」「親が悪い」など批判的なコメントが多い。
更に新聞、ラジオ、テレビなどにも取り上げられ、著名人などの話題にもなっている。
そもそも、YouTubeのチャンネル登録者数も5万人を突破し10歳ですでに世間に対してそれだけの影響力を持っているだけでも凄いことだと思う。
多数の批判は学校行かないと将来苦労すると懸念しての批判だろうが、僕はゆたぼんの行動力を思うと暗い将来をイメージできない。
撮った動画を投稿したり、インターネットラジオのパーソナリティを行い、色んな人に出会いに行き世間からの逆風を受けても止まらず主張や活動を続けている。
どの道を選んで進むにしても選んだ中で学ばざるを得ないこと、自分の選択や積み重ねは自分で責任と取ることになるのは変わらない。
学校に行く行かないというのはあくまで手段の話なのでそれ自体はどっちでもいい。
ゆたぼんは本人の選択や行動により得られる価値を見出しているだけで是非善悪はない。
確かに学校に行くことで得られたものをたくさん失っていると思う。でも、同時にその空いたスペースに学校に行かない選択によって得られたものがたくさん入ってくる。
だから、凄い人が言ったからとか、皆がやるからなどではなくもっと自分が選びたい選択をしても良いと僕は思っている。その選択に責任を取れるのは自分しかいないのだから。
参考
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6329591
くまえひでき
人と比べた方が良い
人と比べることは自分の置かれている状況や実力を客観的に知るための手段になるだめ。
よく人と比べるのは止めようと聞くけど、人と比べること自体は悪いことではない。
人と比べることは止めようの本質は人と比べることによって一喜一憂するのは止めようということ。隣の芝生は青く見えるもので、だから比較したら劣等感を抱いたり、人が楽しんでいる様子や調子のいい様子に嫉妬してしまう傾向がある。
そうなると自己肯定感や自信にも響き益々萎縮してしまう。
だからその対策として人と比べるのは止めようと言われるのだと思う。
ただ、最初に話したように自分の立ち位置を客観的に把握するためには人と比べることは大切だ。人比べて自分の立ち位置を知ることができると自分の取り組みに対する姿勢や方法などを見直すの機会を与えてくれたり、それによってその時点で軌道修正が可能になる。
とは言っても人と比べたらどうしても劣等感を抱いてしまう。嫉妬してしまうということもあると思う。そんな時、僕は3つのことを意識して感情を揺さぶられずに自分の立ち位置を知る手段として割り切れている。
・なぜ比べるのか比べる理由、目的を明確にする
→目的が自分の基準を知りたいだけなら相手のことはどうでもいい。
・比べている人と自分は求めているものが別々だと認識する
→状況や様子で上手くいってそう、楽しんでそうと連想してしまうがそれらも自分にとってはどうでもいい。人に開示になくても自分は本当は何が大切なのか好きなのかを再認識。
・比べている人を目標の一つにする
→比べることで劣等感や嫉妬を抱くのは自分には無理だと諦めているから。比べている人にできていることは自分にもできることとして目標にしてみる。
以上。
ただ、どうしても相手と比べて自分の立ち位置を知る手段に成りきれないのならその相手を比較対象から外すことにしている。
高層ビルはそれ単体を遠目から眺めても高いことがわかる。でも、実際は高層ビルの周りには小さな雑居ビルもたくさん立っていることが多い。それらと比較するからどれくらい高い高層ビルのかがわかる。
比べることでより明確に客観的な位置がわかってそこからのアクションなのでやはり比べることは止められない。
くまえひでき
根拠のない自信の正体は
決心。心に決めることだと思う。
何か物事を達成した、成功した。だから自分を信じられるのではない。
自分はやり遂げるのだと自分が心に決めたことを信じてそこに向かっていく。
自分で決める、自分が自分の舵を取っている感覚があるから置かれている状況がどうであっても気持ちを安定して物事に挑めるのだと思う。
逆に自分で決めることができなくて他所に拠り所を求めたり、決定の責任を他人に委ねたりすると気持ちも不安定になりがち。自責の念がなく、自分ではコントロールできないものをコントロールしようとしているからだと思う。自責、自分に責任を持つというと自分に対する負担が大きくてしんどいイメージを抱くかもしれない。実際、責任という言葉を辞書で調べてみると自分のやったことの結果に対して責め負うことという。ニュアンスもある。
しかし、単に言葉のニュアンスの視点からも考えるとなすべき務めを担う。つまり自分が決めたこと(成すべきこと)を自分に託すことだというエッセンスも含まれているのではないかと僕は思う。そして、よく言われる自由がまさに合致する。自由というのは言葉のまま自らを拠り所にすることなので。
結局、自分が心に決めたことを自分を拠り所にしてそこに沿って日々決めた物事を実践していくことが皆大好きな「安定」や「成功」に繋がる要素の一つだと信じている。
くまえひでき
思う存分徹底する
結局、その自分の意思を貫いた方が健全、上手くいくのではないかと思った。
あんまり夜遅くまで活動していると明日の仕事に支障をきたさないか
ご飯を抜いたらエネルギーが足りなくて集中できないのではないか
自己管理の一環として自分の生活習慣や健康面を意識するのは勿論大事。
でも、そればかりに囚われて自分のやりたいことを思う存分できないのはなんだか違うと思った。
長い人生にて自分に無理をさせてでも自分の意思のままにがむしゃらにやる時期はあっても良いと思う。物事の滑り出しは特に。
80代で独学でプログラミングを始めて「hinadan(ひなだん)」というiPhone用のゲームアプリを開発した若宮正子さんという方を思い出す。
その方の本「60歳を過ぎると、人生はどんどんおもしろくなります。」より、若宮さんは食事は自分の食べたいものを食べたり、睡眠時間もバラバラで一見不規則で不健康に感じられるけど実は逆みたい。
自分の気持ちに寄り添い自分の思うままに日々を楽しまれることを大切にされているとのこと。だから、結果的に心身共に健康的で豊かになれるのだろう。
僕もその日の間に終わらせたい作業がある時は思い切って徹夜でやることもたまにある。その翌日は仕事でキツイだろうなと懸念していたけど、思いの外、あまりキツくなくむしろ快適に仕事に挑めた。
その後帰ったらそのまま爆睡したけどね。
2度目だけど自分の生活習慣や健康面に気を使うのは確かに現実的に大事。
ただ、そのバランスを崩してでも自分の意思のまま没頭できるものを持つのはそれはそれで好きだ。
その結果、心身共に豊かさを得られるのは僕も体感済み。
参考
若宮正子著「60歳を過ぎると、人生はどんどんおもしろくなります。」(新潮社)
頑張るというより楽しむこと
「楽しんで仕事をしているヒトには誰も勝てない」
山口周さんの6月11日のツイート(https://twitter.com/shu_yamaguchi/status/1138658576669372417)より
自分にとって楽しむ対象を見つけて楽しんでいる人。そのコトに自分なりの価値を見出して楽しんでいる人。
そんな楽しんでいる人にはしかめっ面で深刻そうに頑張っている人には長い目で見たら勝てないだろうなと僕も内心思っていたが、実際そうみたい。楽しんでいるからエネルギーが切れることがなく、常に高エネルギーで惹かれるものがある。たまにそんな人見るよ。
また、この山口周さんのツイートを知ったのは自己理解について発信されている やぎぺーさんのYouTube動画「「頑張る」をやめても大丈夫な理由」(https://www.youtube.com/watch?v=53nRJPgYF4A)より
この動画で僕が一番印象的だと思ったメッセージは頑張り時は「頑張らないといけない」でなく「頑張りたい」と思う時ということ。
人から与えられた課題があっても頑張ろうと思えるのは本当は誰からも強いられていない。結局、自分の意思でその課題に頑張ることを選んでいるんだなと思った。今頑張っていることを楽しもう。
プログラミングスクールに通っている僕は今月中旬までに合格しないといけない試験がある。進捗がギリギリかつ間近で切羽詰まるだけで最近あまり内容も頭に入ってこなかった。とにかくこれを突破しないと先には進めない。やるしかないんだと深刻になっていた。
そう、深刻な気持ちのまま取り組んでもどうせ頭にはまともに入ってこないし時間だけが経過する。だからどうせなら純粋に楽しもうと思った。
そもそも僕はプログラミングは時流としても個人のキャリアとしても明るいと思い興味あって始めた。だから、楽しむことはできる。
プログラミングに限らず好きなことや興味あることでも仕事になる程 徹底して取り組むと詰まったり上手くいかないことは必ずある。その時、自分には向いていないというのは短絡的な解釈であって、そこに価値を見出したり楽しんだりすることはできる。
例えば、、
・その取り組みの内容自体を味わう
・できなかったことができるようになる成長を喜ぶ
・自分の限界を感じさせないほど没頭する
楽しむ要素はたくさんある。
僕はただ課題を達成も達成して、そして同時に現状に楽しみを見出す。
参考
・山口周さんTwitter6月11日のツイート
(https://twitter.com/shu_yamaguchi/status/1138658576669372417)
・やぎぺーさんのYouTube動画「「頑張る」をやめても大丈夫な理由」
コントロールできるものをコントロール
自己啓発などで言われることだけど、実際、コントロールできるものをコントロールした方が無駄なエネルギーを使わずに済む。
自分がコントロールできるものは一番身近な存在だと自分。更に中でも自分の言葉はもっともコントロールできる部分だと思う。感情はコントロール難しい。良くも悪くも感じていることは感じていることに変わりはないから
言葉が感情に影響を与える。
今回観たYouTube講演家 鴨頭嘉人さんのYouTubeで一番印象的な気付き。自分が感情をコントロールするのでなく自分が出す言葉によって自分の感情はコントロールしやすくなっている。実際、自分の日常を振り返るとそうだった。
他にも鴨頭さんのYouTubeを観て僕が印象的だと思った部分やその気付きをいくつか挙げてみる。
◯プラスの感情を出すとプラスの現実が返ってきやすい、マイナスの感情を出すとマイナスの現実が返ってきやすい
・相手に立ち向かっていく言葉を出したら、出している瞬間はすっきりするも後ろめたさを感じたり後味が悪い。どんなに自分が真っ当な主張であったとしても、攻撃的な言葉は後味が悪い。
逆に自分の非や弱さを認めて素直な言葉を出したらその瞬間は違和感しかないが出した後、自分の成長っぷりや凄さを実感する。一歩引いて譲る、相手を受け入れるその心の余裕が自分をより高い次元に導いてくれる。
◯他人の発する言葉はコントロールできないが自分の発する言葉はコントロールできる
・他人の発する言葉がどのような言葉であってもそれに反応する際はどのような言葉や行動で返すのか選ぶことができる。ただ、気持ちのままに出すのでなく目的に沿ったものを出した方がいい。
仲良くなりたい相手が自分を批判したならそれに対して立ち向かうような言動で挑むのでなく、表面上だけでもプラスに返す。相手の言葉を自分の糧にする自分最高!と自己承認ができる。
◯「戦う」コマンドしかなければ疲れるから「逃げる」などいろんなコマンドを持っていると楽
・・・「戦う」「競争」それらが世の中の全てなのか。そうではない。勝った方が良い場合、負けた方が良い場合、逃げた方が良い場合、いろんな場面、選択肢があることを知っておくだけで窮屈にはならない。
自分がもっともこの世でコントロールできる言葉をコントロールすることが好循環の入り口なのかもしれない。自分のエネルギーは使うべきところで使いたい。
参考
YouTube講演家 鴨頭嘉人『「鴨頭式超コントロール思考」で人生が変わる!』
https://www.youtube.com/watch?v=t2BdftcW_mY