青いクマが大好きなモノに囲まれて暮らすために通った跡

青いクマ〈未熟なくまえ〉が大好きなモノに囲まれて暮らすために自立を目指した課程の跡(記録)です。今を生きる人間としてその生き様を通して何かしら良いきっかけを与えられたらと思いこのブログを始めました。

今の自分が恵まれているかというと恵まれていると思う

生きていれば嫌なこともあれば、事が思い通りにならないこともありますよね。それでも恵まれていると感じている、くまえ ひできです!

自分の恵まれているor恵まれていない、豊かであるor豊かでないなどの認識は今の自分以外の何かと比較してそれが言えます。その何かというのは過去の自分であれば、他人であることもあります。

僕はどうして今、自分は恵まれていると思えるかというと、いつどこにいても多くの情報を知って多くの人とやり取りできるためです。

インターネットで色んな情報を入手し、地域関係なく色んな人とやり取りができます。図書館や本屋さんに行っても読みたい本も見つかりやすいです。通信費や書籍代はかかるものの、それ以上の負担なくありとあらゆるモノを知れて関わることができます。

全ては自分が努力してそのような環境を得たわけではないですが、そんな環境に生きています。僕に限ったことでなく、今の日本人の多くがそうなんですけどね。

それを恵まれていると思えるのはインターネット自体がない時代に山奥で暮らしている昔の人をイメージして比較しているからです。

更に自分自身も現在は五体満足で手足も使えるし、目も見えるし(視力は良くないが)、耳も聞こえるし。。

それを恵まれていると思えるのは今後もし手が使えなくなったらとか耳が聞こえなくなったらとか考えたら、今の自分自身の状態は恵まれていると感じれるためです。

普段当たり前だと思っていることは今の自分よりも酷な環境、状況と比較をすることで、今の環境や状況が当たり前でなく有り難く恵まれていることだということがわかります。

僕は事がうまく進まずに調子が悪い時、このように今の状況や環境を振り返って今の自分より酷な環境や状況をイメージして比較します。

すると、無駄な力が抜けて気持ちが楽になりますよ。日々起こる出来事に振り回されずに、日々気持ちよく過ごしたいものです!

「誕生日おめでとう」って言われたかったら、まず自分から「ありがとう」伝えても良いかも

今回28歳から29歳へ年を取りましたくまえ ひできです!

今まで誕生日は祝ってくれることばかりに意識が向いていました。最近はないですが、子どもの時は実家で家族がケーキやプレゼントを用意して祝ってくれて特別な日の一つでした。

年を重ねるにつれて、そこまでしてもらわなくても構わなくなり今は誕生日だからといって特別な日という実感はありません。

しかし、誕生日にはSNSなどを介して人から「お誕生日おめでとう」というメッセージをいただくことがあります。それも普段やり取りをしている人から、全く接点のない人まで様々です。

このように毎年、誕生日は他人から「与えられる」というのが普通だったのですが、今年はちょっと違いました。

誕生日前日、この人からお誕生日おめでとうって言われたいなという欲が芽生えました。ですが、そんなにやり取りや付き合いも無いのでその相手からは来ないだろうと予想できました。

だから、おめでとうのメッセージを待つのでなく、自分から今日はお誕生日だということを発信することにしました。でもそれだけだと、だから何?で終わるのでそれまでです。

なので、接点自体は少なかったけど、その少なかった接点でも28歳の時に仲良くしてくれてありがとうという気持ちを表現することにしました。

その時、ふと思ったのです。今まで「おめでとう」を待つスタンスだったけど、今回は自分が周りに「ありがとう」を伝える誕生日であっても良いのではと。

なので、その人だけでなく、何人かに「ありがとう」のメッセージを送りました。1人ずつ送っている最中に先に「ありがとう」のメッセージを送ってくれる人もいらっしゃいましたけどね。

色んな人に自分から「ありがとう」を伝えていくと、お返事をいただいた人の中には「(僕からの)メールをありがとう」「気持ちを届けてもらった気がして嬉しい」などの反応をしてくれた人もいらっしゃいました。

今までの誕生日の在り方がガラッと変わりました。祝ってもらうこと前提の誕生日も良いけど、自分が普段の感謝を伝える日として誕生日を活かすのも有りだなと実感しました。

あと、こちらからメッセージを送ってもお返事が返ってこない人も中にはいます。相手は自分のことに興味ないのかもしれません。でも、それに対して不貞腐れたり落ち込む必要はないです。

何故なら、それでも自分が感謝を伝えたい程魅力的な相手であることは変わりないのですから。その相手に対する気持ちをぜひ大切に仕舞っておきましょう。

人から頼られる側だけでなく、人に頼る側も準備って必要だと思う

前回のクビになりましたのブログ記事のアクセス数が普段の何倍もありビックリしましたくまえ ひできです!

職場を後にして翌日に自分を気にして何か力になることはないかとお電話してくださった方がいます。ありがたいですよね!

その時にこれから自分がこれからどうしていきたいのか、何を目指したいのか、何を身に付けていきたいのかをはっきりと伝えることができませんでした。勿体ない!

漠然とした目的や目標があっても掘り下げられていない。そもそもその目的のためにその目標である必要はあるのか、本当にそれを目指したいのかなど。。そんなあやふやな状態では頼りの相手も先に話を進められないし、アドバイスもしようがないです。

例です。
学校で算数が苦手で数学を先生に訊きに行きました。「因数分解の単元がわかりません。教えてください。」と「因数分解の単元のこの問題を~やってー解いたのですが、どうしても正解になりませんが、どこがおかしいでしょうか」ではどちらの方が解決し前進しやすいでしょうか。

後者の方が自分がどこが自分の問題なのかわかっているので、先生もピンポイントで教えやすいです。教えてもらう側も自分の問題点がピンポイントにわかっているので、他人の力の恩恵を感じて受け取りやすいのです。

だから最善を尽くすなら準備って必要だと思います。上の例でいう準備っていうのは自分でその単元の問題を実際に解いてみて試行錯誤するってことですね。

人に頼るって上手く事を進める上でとても大事なことだと思うけど、自分の課題をそのまま他人に押し付けても何も事は進みません。

ただ、自力で取り組む時ってどうしても孤独を感じることがあります。僕はそれで中々取り組みが円滑に進まず、もたもたしていました。

なので、そんな時は自分の原動力となるものを用意することにしました。人によって何が「これのお陰で力が湧いてくる!」という原動力となるものは様々です。

例えば、僕なら今は居ないけど将来パートナーができた時のことを考えます。姿形もないですが、その人に出会うために今があるのだと思うと力が湧いてきます。

あとは、素直に貪欲になることですね!

クビになるって変哲のない出来事で、別に残念に思う必要ないと思う

昨日でお仕事がクビになって一段落終えました、くまえ ひできです!

仕事がクビなりましたと人に言うとよく大変だねとお返事いただけます。でも、大変なことでもなく、辛いことでもなく、変哲もない普通の出来事だと思うのです。

職場がなぜ僕をクビにしたかというと職場が求めている人材になりきれなかったからです。求めない人をそこに置いてても職場にとっては負担になるだけです。その会社、職場全体のことを考えたらそれが最善だからクビにしただけです。

このようなことって色んなコミュニティでも言えますよね。学校の部活動や社会人サークル、起業家集団など色んなコミュニティで、その基準や色に染まりきれない時もあります。やはりコミュニティの繁栄のため、質を守るために染まれない人は放置されたり隅に追いやられたり淘汰されます。

でも、それは酷いことでも残酷なことでもございません。コミュニティ全体のためを考えたら普通の事です。だから、自分が周りの期待に応えられる、自分がコミュニティ全体を底上げできる存在としてコミュニティに居ないとどんなに評判の良い、恵まれた環境のコミュニティでもそこでの存続は難しいものです。

傍から見て魅力的な職場や部活動、起業家集団などはたくさん巷にあると思います。その環境に飛び込んだらもっと自分は良くなる、自分の居場所になれると感じやすいですよね。

でも、他人から用意されたコニュニティに身を委ねただけで自分がより良くなることはないのです。確かに人は環境によって大きな影響を受けます。と同時にコミュニティ内の周りの人たちにとっても自分はそのコミュニティを構成している一部分であり
環境そのものなんです。

だから、自分好みのコミュニティに自分が受け入れられるかどうか以前に、まず自分がそのコミュニティが更に盛り上がるために尽くすことができるかどうかが大切かと。それが自分にとってそのコミュニティを長く居心地のいい環境にすると考えています。

自分の内面から染まりたい!と思えるような出会いを求めるところからでね!

ってことでそんなことを意識しながら僕も再出発します!

自分の拠り所は自分にしかなれないので

生きていたら色んな背景、色んな価値観を持った人たちに出会いますよね。どうも、くまえ ひできです!

僕は今まで自分の周りの人たちと真正面から向き合うのをできるたけ避けてきていました。
相手の意見と自分の意見が異なっていたら、相手の意見の方が正しいのではないかと不安になり、
身を委ねるように相手に迎合することが多かったです。

自分と異なる相手の意見がストンと自分の中に入ってきたのなら良いと思います。
自分と異なる相手に違和感あっても受け入れるなら良いと思います。

でも僕は自分で考えることを怠り、ただ感情の拠り所を求めて相手に迎合していました。そして結局耐えきれずに関係を崩していくことがよくありました。

とにかく臆病で、考えたくないのですよ。安心したいのですよ。でも、残念ながら自分の拠り所は他人には務まらないのです。

このようなこれまでの僕が自分に足りないのは自分の選択に責任を持つ力なんですよね。何を選んだ、何を信じたなんて何でも良いと思います。

それよりも自分が選んだものを信じ抜くことが結果的に自分が幸せを感じる鍵ではと今は考えています。
自分が選んだことで良くも悪くも起こるだろう全ての物事を受け入れることで信じ抜くことができるはずです。

人から楽しそう、面白そう、辛そう、苦しそうと言われたものと自分が感じているものは必ずしもイコールではありません。
周りに見える現実がどのようなものであったとしても、その現実を生きる本人が幸せかどうかは本人にしかわかりません。

だから、ただ人が言ってたからと気休めのために他人を拠り所にするのでなく、自分のために自分を拠り所として自分で決めていきたいものです。

好きなものを人前で表現できなくても自分の中で大事に練ってみると。。

最近、性やそれに関するコミュニケーションについてを仕事として扱っている方からアンケートの依頼をいただきました、くまえ ひできです!

男性の性における価値観や性行為に関するアンケートでした。問い一つ一つが具体的で露骨で、現在28歳だが女性経験が無い僕にとっては、イメージでしか答えられない問いもありました。

でも、一問一問答えている間がとても楽しかったのです。何故なら僕もみんなと同じく性に関する内容は興味あるからです。普段は人とそのような話をする機会はほとんど無いですが、自分の中で結構その類いのことを考えています。

つまり、僕は むっつり助平ってことですね。ここでそう言っている時点でむっつりでは無くなったかもしれないけど。そのため、今回のアンケートは 自分の好きを吐き出す貴重な機会として有り難く感じたのだと思います。

性に関する話題は相手にとっては不快に感じる人もいますので、いつでもどこでも誰とでもできるわけではないです。なので、色んな人から見られるこのブログでは抽象的に簿かしてお話させてもらってます。

でも、だからと言って性に関心持つこと自体に罪悪感を持ったり否定して、好きや興味ある気持ちを圧し殺す必要もありません。好きなものは好きだと言える自分の気持ち、つまり底から出てくる思いは大事にしていきたいのです。

その時点で表現する機会が無くても自分の中で好きなものは好きという気持ちは大事にして練っています。今後、表現するチャンスは何かしらあると思うのでその時のために自分の中で拘るのも良いですね。今回もアンケートは僕の好きなことの1つを表現する良いチャンスでした。

それにいざ、今回の僕みたいに自分の好きなことを人に開示することで恥ずかしさが伴うこともある思います。あと、人に変に思われるのではと怖さもですね。でも、自分の好きという気持ちとそれを表現する言動や自分の在り方に一貫性を持たせると気持ちが良いものですよ。

自分の力ではどうしようもないことで苦しんでも虚しいだけ

今朝、乗るべき電車を間違えて遠回りした結果、お仕事に遅刻しました くまえ ひできです!

間違った電車は乗り換えの駅に停車せず通過する電車でした。乗るべき電車を間違えたことに間違った車内で気付き、次の停車駅から乗り換えの駅を検索。すると、何とかギリギリ間に合うようで一安心。下車して本来の乗り換えの駅に向かう電車を待っていました。しかし、人身事故で電車が遅れてその時に遅刻が確定しました。

その瞬間、もっと早く家出れば良かったのだ、最初の駅で何故間違えるんだと自分に対して腹立たしい気持ちで一杯でした。次にこんなことで遅刻するなと情けなくなり、無気力になりました。雨が降ったり風が吹いたりと天候のように忙しかったです。そのような感情に非常にエネルギーを使っていました。それらを抱いたから何か良い方向へ迎えるわけでないのに。

自分の感情に振り回されていたら、一人で何をしているんだと段々虚しくなってくるんですよね。そこから冷静に客観的になれました。自分の力では今からどう足掻いても時間には間に合わないわけだから、自分のできる最善をつくそう。最善をつくして、限りなくマシな状態に持っていこうと。

そのようなやり取りが数秒の間に行われてから、職場に遅れる連絡をして、自分で調べる以外に駅員に目的駅に停車する電車を教えてもらい。。などできることをやって確実さを高めていきました。

反省は必要だけど、感情的になって憤慨したり、ふて腐れたり、開き直っても何も変わりません。疲れるだけです。だから、自分でも最善をつくせる選択、行動に集中して淡々とこなせば良いのです。

感情的な場合は、できることを期待しなれれば良いと思います。できなかったけど仕方がないなと寛容になれば正気になりやすいですよ。これからも色んな失敗をやらかすと思いますが、それも自分の一部として快く付き合っていきたいものですね。