やれることは一通りやっていきたい
準備ができていない、今の自分ではまだまだだ。と思いつつも見切り発車でも動いてみようと思う。
新居に引っ越して1ヶ月ちょっと。あ。前回の記事で伝えていなかったと思うけど新居では男3人でルームシェアという形で住んでいる。でも僕以外の2人は今夏には旅立つ予定なので近々僕は今の部屋で1人暮らしに模様。
自分の周りも時を重ねるごとに変化していくのだが、僕自身は変化できているのだろうか、とふと思う。自分が変化をするためには今までにやってこなかったことをやってみる必要がある。
例えば、僕は新居に住み始めてから夜の就寝前に床や洗面台、トイレなどの一通りの清掃する新しい習慣が身に付いた。新居の奇麗なままを保ちたいというのもあり、人が住み着けば必ず汚れるため。単に住環境がマシになるだけでなく日々清掃する自分自身の在り方のお陰で小さな自信が蓄積されていくのがわかる。
でも、それだけで満足しても変化とは言わない。現状に安住せずに変化は行き留まることを知らない。思い立ったことは極力行動に移していきたい。今日は仕事で疲れたからこのままで良いと日々の煩悩に囚われがちでそれを課題にすることはあったけど、それ以上に最近はやらずに後悔する機会損失の方が脅威で怖くなった。
同時に色んな事に次々と新しく取り組んだらその分だけ知っている世界が広がり人として豊かになっていくことは目に見えている。だから今このブログを再び書き始めたのだと思う。
頑張る原動力となる好き
3月頭から住んでいる転居先のマンションが僕は好き!このマンションが今の僕の家だから頑張れる。
3月に入って、先日、見つけた転居先へ引っ越すことができた。
梅田と難波のちょうど真ん中にある大阪市西区に建つ新築のマンション。
今までは寝床として使えたらいいのでとにかく賃料を安く抑えたらいいと考えていたが、今回は少し背伸びをしてみた。
この物件を不動産から紹介されて以降、審査の通過、契約書の完成、保証人からの書類の送り返しなど一つ一つの段階の積み重ねると同時に喜びや楽しみの気持ちも積もっていった。
部屋を綺麗に使おう、大事に使おう。住む前からそんな気持ちが芽生えていた。初めて自分の住む家に愛着が持てたと思う。
そして、いざ部屋の鍵を貰って玄関の扉を開けると新築の香りがポワーンと漂う。
新築なだけに傷を付けたり汚したりしたら明らかに最初の住人である自分のせいだと
わかる。
将来この家を出る時は新築の状態のまま部屋を返したい、むしろ新築以上にピカピカな状態で返すくらいの気持ちがある。
新居に移ってから数日間たった後も外から帰ってくると今の家を借りてよかった!と感じる。賃料は過去の一人暮らしの倍以上はするが、それでも周囲の力を借りながらでも心が動いたお部屋に住めることを誇りに思う。
今は自分のお部屋は頑張る原動力の一つになっている。
「すみません」より「ありがとう」
遜るより感謝した方が言われる相手も伝える自分も気持ちが良い。
僕は最近、「すみません」という言葉が気がかりになっている。
どう気になるのかというと「すみません」を多用する人が多すぎるということ。本当に多い。
相手が落とした物を拾って渡したら「すみません」。狭い通路で相手を先に通したら「すみません」など「すみません」は日常生活の様々な場面で聞くことができる。
でも自分も今までを振り返ると「すみません」を多用している。無意識に。
しかし、今僕は意識をして「すみません」を発するのは必要最低限に留めている。
「すみません」には元々2種類の意味がある。気持ちが済まないという自分を遜る意味と申し訳ないという謝罪の意味。
今回挙げたよく言われる「すみません」は前者の遜る意味で、「すみません」を多用することが自然に自分の価値を下げている習慣になっていないかということで気になっている。
だから僕は謝る時以外は意識的に「すみません」を使わないようにしている。
例えば、落とし物を拾ってくれたら「ありがとう」、狭い通路で僕を先に通してくれても「ありがとう」を伝えたい。
やはり「すみません」と自分を遜るよりも「ありがとう」と相手に感謝した方が相手も自分も気持ちが良くて生産的だから。
物に愛着を持つには
自分の暮らしや活動は私物たちに支えられて成り立っていることを意識することで愛着を持てると思う。
先日、元々あった30ℓスーツケースを大きめのスーツケースに買い替えるために手放すことにした。あと、年季の入ったビジネスバッグも。
そこでリサイクルショップにそれらを引き渡すことにした。
今拠点としている阿倍野から浪速の辺りまで4件のリサイクルショップを巡った。
しかし、傷があったり皮の部分が剥がれていたりするものだから中々相手にされず。
そこで元々住んでいた東淀川にて過去の引っ越し時にも色んなものを引き取ってもらえてかつ、
感じの良い対応だったのを思い出したので南から北の東淀川に行くことにした。
スーツケースとビジネスバックを手放すだけなのに結局半日掛かったが、改めて物を大事にしようと思えた。
物を大事にするということは物に執着することではなく、愛着を持つことだと思う。
愛着を持つということは日頃から良い状態を保ち続けようと付き合っていくことだと思う。
保ち続けるということは保ち続けるための習慣が必要だけど、その習慣を持つためにその物が普段から自分に何をもたらしてくれているのか。
自分の暮らしや活動を支えてくれるパートナーとしてどれだけ大きな存在かを振り返ってみたい。
例えば、今回のスーツケースなら両腕には収まり切れない私物を丈夫なケースの中に管理してくれたから今まで沢山遠出をすることができた。
だから有り難い。すると労わりたくなる。
そんな気持ちになると良い状態を保ち続けるためのメンテナンスを習慣として取り入れやすいのではないかと思う。
どうでもいい自己表現でいい
ブログのPVやfacebookのいいねを稼ぐための記事作成は僕は続かない。
ネットでの自己表現に自分で勝手に制限をかけていたので窮屈だった。
今回住む場所が無くなったことをきっかけにネットでの自己表現の必要性を考えされられたわけだけど、元々は半年より以前はブログやfacebookなどの投稿を行っていた。
当時はその時々の自分の取り組みや出来事、感じたことなどを綴ることで、
特にブログだと後から自分の存在を知った人が過去に遡って自分のことを知ってもらうことができるから投稿を続けてた。
しかし、この半年間は全く投稿をしていない。2つ理由がある。
1つは今の自分を伝えることに嫌気がさしたため。
当時は自信が無かったのもあり自分を表現しそれが人から客観的にフィードバックされるのが怖くて苦痛だった。こんなに苦痛なら止めてしまえとなった。
もう1つはネットでの情報発信はポジティブな良いことしか言えないという認識で凝り固まっていたため。
気持ちが沈んでいる時に心にもない前向きなメッセージを考えることが苦痛だった。だから止めた。
どちらも苦痛になって止めたのだがこれは僕が勝手にイメージして苦痛に感じているだけの妄想だったと思う。
自分が表現したいことを表現したら良いのに何かと言い訳をして結局表現することを止めたのだ。
僕のことを見ない人は見ない。どうでもいいことだとスルーされる。
それでも流石、インターネット!世界中から僕の自己表現を見ることができるのだから僕の表現に共鳴できる人は必ず埋まっている。
ほんの一握りのその人だけにメッセージか届けばこれ以上何を求めるだろうか!
ネット上での自己表現はやった方が良い
今回住む場所を失って思ったことの1つとして、ネット上で日常から自己表現をしておけば良かったという点がある。
ネット上で不特定多数の人に自分を表現し晒し続けることで知る人は知る、リアルでは有り得ない出会いがある、興味ない人からはスルーされる。
でも、確実に言えることはネット上で自ら表現しなければ誰からも知られることはない。
今回みたいに住む場所が無くなっても普段からネット上で自己表現をしていれば、アドバイスをしてくれたり一時的に住む場所を紹介してくれることもあったかもしれない。
そのような場合だけでなく、自分の好きなことを表現することで同じように興味のある人が集まりやすく一つのコミュニティが生まれる。
世界中への自己表現を可能にして様々な化学反応を起こしているのはインターネットというテクノロジーのお陰。そのテクノロジーを活用できる時代に環境に暮しているにも拘わらずそれを使わないのは正に機会損失。
表現して損はないと思うので僕もこれからはこのブログや他にSNSを用いてネット上でも表現する回数を増やしていきます。
ちなみに半年前はまあまあブログやSNSで発信はしていたが、この半年間はほとんどやってなかった。
それはどのような考えがあったのかまた次の記事に綴ろうと思う。
住む場所が無くなった
唐突だけど、住む場所がなくなりました。
前の家を出てもうもうすぐで一週間、
有り難いことに何とか一昨日から知り合いの家に
少しの期間だけ滞在させていただいている状況。
それまで家を出てからはスーツケースなど
大きな荷物は駅のコインロッカーに入れて
ネットカフェなどを転々としてた。
幸い雨が降らなくて本当に良かったと思う。
そして今も新たな転居先を探している状況ではあり、
今回の出来事は急だったので最初は一瞬うろたえたが
環境や状況を変える事で自分の今までの考え方や習慣、
関わる人や物事を刷新できる良いチャンスだと思った。
今回の出来事が起きて誰かの助けを借りようを結構早めに考えたが、
すぐに頼れる人は出てこなかった。
現在30歳で20代は色んなコミュニティに参加して
多くの色んな人に出会ってきたけど、所詮はこの程度。
社会に対して何も生まなかった。
しかし、それで良い。その自分の人生に価値を付けられるのは
これからの僕だけなのだから。
そして、自分の人生、自分自身の価値は自分で決められることを
伝える伝達者としてこの世の中に引き続き居座りたい。
そもそも何故このような唐突な退去となったのかは
興味ある人だけには言うので訊いてくれたらと思う。
そのこと自体は僕が伝えたいメッセージではないので!
ひでき