身軽に動くための2つの認識
ブログやSNSを毎日投稿しようと思っても中々続かないというのは定番の課題です。僕もこのブログを見ればわかりますが毎日続けているわけではないです。
投稿が毎日続けれない理由の一つとして完璧を求めている点があります。読んでくれている人の役に立つ情報発信をしなければならない。でも、何も思いつかない、まとまらないって。
僕もそれで取り掛かりが遅くなったり、結局その日のうちに何も書けなかったりすることはよくありました。
ただ、今はあまり考えずにこの記事を書いています。あまり考えずに書こうと思った決め手となった認識が2つあります。
〇時間は待ってくれない
まず、時間はそれでも進むという認識です。じっと考え込んでいると人は自分のところで立ち止まって寄り添ってくれるかもしれません。
しかし、時間は自分なんて関係なく容赦なく刻々と進んでいきますよね。テレビゲームの強制スクロールみたいです。時間のペースに合わせて進むしかないと思っています。
やらなかったら何も残りません。やったら何かは残りますので、やらないよりかは「マシ」にはなれます。
〇評価は自分でなく、人がする
次に自分の記事に意味や価値を付けるのは読んでいる人という認識です。前回の記事でも触れましたが物事自体に本来 意味や価値があるわけではありません。あくまで人間各々が勝手に良し悪し評価して意味や価値が付くだけです。
だから、自分の認識と実際の結果が異なることもありますよね。何が起こるかわからないので無理に気張らず、大したこと無いと感じる記事で良いと思います。ちゃんと自分が伝えたい相手に伝えようと書いたのなら。
僕の記事をつまらないと思う人は読むのを途中で止めたり素通りするだけです。それでも自分の記事を何かしらの糧として活かしてくれる人も世の中にはいます。何処の何方かは知りませんがそんな人がいると思うだけでも有り難いではないですか。
以上の決め手があって取り掛かっています。やらないことには経験は増えない。経験が増えなければ質は上がらない。だからまずは「やる」ことに落ち着きますね。
くまえ ひでき
自分の持っているもので人の役に立ってみては
人は誰かのために何かしら役に立って、この社会の中で生き続けていられます。
どのような生き方をしてもそれは万人が共通する点です。
それに人の役に立つといってもどう役に立つのかは様々です。
人を楽しませる、人を癒す、人を勇気づける、人を安心させる、人を楽にさせる・・などなど。
先日はその中の「人を楽しませる」ことで人の役に立っている人たちの集まりに参加してきました。
前から僕が付き合いのある溝端 康祐さんの主催される集まりでした。
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その集まりでの集合写真
その人は「ハッピークラウン」という事業名のもと、医療施設などでエンターテイナーが活躍する場を創ろうとしています。
そして、エンターテイナーがもっと生きやすい世の中を目指しています。
当日、会場には大道芸の人や弾き語りの人、絵を描く人など様々なエンターテイナーがいました。
ちなみに僕は実際に生でパフォーマンスを見ることはありませんでした。見ても精々動画で観るだけでした。
生のパフォーマンスはやはり表現を全身で感じられますから震えますね。
そんなエンターテイナーの方々のパフォーマンスも最初は個人の内にある興味からスタートしました。
そこから自分の興味あることを単なる個人の趣味に留めずに極めて磨いていく。
それを見ている人は楽しめます、喜びます、興奮します。
人の役に立っていますねー。
そしてファンができます。
更にファンが人を呼び新しいファンができます。
役に立っている人の数が増えます。
こうやっていつの間にか「仕事」になっていくのだろうなと感じました。
だから、思うのです。小難しい定義は考えず、要は仕事って人の役に立つことなんだと。
http://sekai1omoshiroi.hatenablog.com
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溝端さんのブログです。ハッピークラウン事業についての詳しい想い綴ってます。
くまえ ひでき
他人が見出だす意味や価値
普段、ゴミ拾いした際はfacebookなどネット上にその様子を投稿していました。
しかし、最近はゴミ拾いしてもネット投稿はしていません。
投稿しない理由は毎日の投稿が単調で意味を感じなかったためです。
毎回の投稿一つ一つに誰に何を伝えようというメッセージ性をあまり考えないまま、ただの作業のように続けていました。
確かにそんなならやらない方がましかもしれません。
でもコレって僕の考えの枠に留まる話なんですよね。自分のやっていることの意味や価値は自分が付けるだけでなく、
それを見ている人も評価します。
その人々も僕が評価しているとわかる人々もいれば、知らない内に誰かから評価されていることもあります。
更に自分が知らないだけで自分の投稿を見て何かしら良い影響を受けている人が居てもおかしくありません。自分がそんな人の存在を知らないだけということは充分あります。
その人たちを自分の都合で強制的に排除したわけですから、価値や意味を見出だしてくれる方々に申し訳ないです。
物事にそもそも意味や価値はありません。人間が初めて物事に意味や価値を植え付けます。
無駄だと自分の勝手な判断で表現を限定せずに、人に自分の取り組みの意味や価値を見出だしてもらうことを再開してみます。
くまえ ひでき
自分の力ではどうしようもないこととどう向き合うか
自分一人の力ではどうしようもないことってありますよね。例えば、天災であったり電車の遅延であったり。
他にも僕は最近こんな出来事がありました。
好意を持っていた女性に他のパートナーができて振られてしまったのです。そもそも僕は男として眼中に無く相手にされていませんでしたけどね。さらに身長が低い人はお断りしているみたいです。
今までも振られた経験はありますが、今回は振られた出来事への解釈が今までと異なりました。
今までは「パートナーがいるのなら仕方がない」「身長は今更どうしようもないから仕方がない」と自分に言い聞かせつつ内心はショックでした。
しかし、今回気付いたのは相手にパートナーがいることや身長が低いこと自体は問題ではないということです。
相手にパートナーがいても、身長が低くてもそれらに代わる魅力や価値を相手の女性に与えることができなかったことが問題なのです。
だから「仕方がない」とは思いません。自分のショックな気持ちを「仕方がない」でごまかし、否定するから自分を責めて苦しくなるのです。
好きなんだからショックは当たり前です。でも、それを「仕方がない」と言い訳しても僕は逆に虚しいです。
一つの出来事として仕方がないで済ませられるけど、自分の事柄としては済ませられない。
なので、自分が一人の人として男性として周囲から少しでも魅力を感じられるような人物を目指して日々生きていくしかありません。
勿論頑張ったからと言って必ず物事が自分の思い通りに運ぶわけでもないですよね。今回の僕の出来事なら僕が頑張ったから関係を築けるわけではないです。相手も同じ人間として人を選ぶ権利はありますから。
ただ、大切なのは手探りでもその時々に必要な自分のできることを最大限に取り掛かることです。少なくても可能性は限りなく高めることできるのではないのでしょうか。「人事を尽くして天命を待つ」です。
冒頭で挙げた天災による被害も日頃の対策によって限りなく最小限に留めることもできます。
電車の遅延も家を出る時間をずらしたら巻き込まれないかもしれません。
このように自分一人の力ではどうしようもないことはありますが、それに対して自ら働きかけることはできます。何も悲観する必要はありません。
くまえ ひでき
自分はできるという証拠
最近は夜が眠れなくて朝まで起きていたことがありました。
徹夜した日の翌朝は少し眠気もありますが、昼間もこれで持つのか不安になりませんか。
実際は昼間一日くらいは凌げる体力があったとしても、気持ちだけが先走りをして不安でいっぱいとなります。
そこで自分が不調無くやっていけるのだろうか不安いっぱいな時はこれまでの自分のことを振り返ってみます。
自分のこれまで時間を忘れるほど夢中になったことを思い出すことです。
例えば、僕は昔 携帯ゲーム機で遊んでいましたが、5時間、10時間と何時間でも遊んでいることができました。ゲームをやっているときはご飯も食べることも無ければ寝ることもありませんでした。
何時間も黙々とゲームをしているのだから目は疲れますし、身体もカチカチになってしまいます。そんな状態でも不安な気持ちは起きずに夢中になれました。
徹夜明けとゲームで遊んでた時のどちらとも身体的に疲れていることには同じです。
でも、どうして一方は不安に駆られて、もう一方は平気だったかというと自分がワクワクしているか自分事として興味持っているかの違いではないでしょうか。
ゲームをやっているときは親から注意されても際限なくずっとやり続けてしまうほどゲームの中の世界観に没頭していました。その分エネルギーは使って疲れは生じるものの、ワクワクするし楽しいから不安なんて感じている余裕はありませんでした。
僕はこのように物事にワクワクしたり楽しむことができることを知りました。そしてなんといっても、疲労を感じても奮発できるだけのエネルギーがあることをゲームの経験で証明できています。
だから、徹夜明けでも不安になることはない。自分はできるんだ!と自分に言い聞かせながら過ごしました。
「しんどい」と思いながら過ごすのと「自分はできる」と言い聞かせながら過ごすのでは充実さが全く異なります。
どんな状況でも「自分はできる」と言い聞かす状態で日々を過ごしていきたいです。
くまえ ひでき
自分の持っているものが誰かのためになる時
自分の今までの経験や知識はどこでどんな時に活きるかはわかりません。
よくよく考えてみれば自分の経験や知識が自分のためは勿論、誰かのためになったりすることは大なり小なり頻繁に起こっているのではないでしょうか?
最近、知り合いからFacebookにてイベントのご招待をいただきました。しかし、僕はそのイベント当日は行くことができません。
しかし、Facebookイベントページにある「興味あり」ボタンを押すことで、そのイベントがより多くの人に知ってもらえるようになることを知っています。
なので、イベント自体に参加して盛り上げることはできなくても、Facebook上で「興味あり」ボタンを押すことでちょっとした応援をすることはできます。
これは自分が知っていたから意図して「興味あり」を押すことができたのです。ただ、もしそれを知らなかったら何も自分からそのアクションを起こすことはできません。
相手から「興味あり」ボタンを押してを言われても知らなかったら「言われたから」とボタンを押すだけの作業で終わるだけです。
自分の培ってきた経験や知識は自分をより大きく見せることもできますが、それだけのために持っているのはやはり勿体ないと思います。自分の中だけで完結させても、起こることはちっぽけです。
自分の経験や知識を誰かのために使って他人を巻き込むことで化学反応のように大きな力を生み出せる。
そのことを期待しながら自分の培ってきたことを誰かのために使えないか探してみると結構楽しいですよ!
くまえ ひでき
刃を研ぎ、木を伐ってみる
最近、思い切ってノートパソコンを購入しました。くまえ ひできです!
パソコン自体はノートパソコンを一台持っていますが、その動作が重すぎて重すぎてまともに作業ができませんでした。文章をキーボードで入力しても画面に表示されるのが3,4秒だったり。。
そんな様なので昔も何度か新しくパソコン購入を考えましたが結局、そのまま流してしまって今にいたります。
でも、このブログのように記事書いたりパソコンを使っての取り組みも増え、環境は大切さを痛感しました。ということで今回はついに快適にパソコンの作業ができる環境を求めて購入に踏み切りました。
今まで持っていたノートパソコンよりもサイズが大きく、CPU、メモリなどの性能も今までよりは高めです。そして家で使いたかったExcelやWord、PowerPointが入ったオフィス付きのノートパソコンを購入しました。
安くはない買い物でしたが、後悔はしていません。実際使ってみると操作に従順でサクサクと快適に動きます。ウィンドウも素早く開き、オフィスも使えます。とても恩恵を感じています。
イソップのお話で きこりと旅人のお話を聴いたことはないでしょうか。
そこには刃がボロボロの斧を使って一生懸命、木を伐っているきこりが登場します。ボロボロの刃の斧で木を伐っているので木を伐る進捗具合は遅めです。
そこでそんな きこりを見た旅人が「刃を研がけばもっと沢山はやく木が伐れるのでは」と提案します。でもきこりは「そんな時間はない」と言ってまた刃がボロボロの斧で木を伐り続け始めました。
確かに一旦手を止めるのは一見、時間が勿体ない気もします。でも、視野を遠くまで持つとその少し手を止めて刃を研ぐことにより、後の取り組みのスピードは上がるのがイメージできますよね。
はやり無闇に頑張るだけでは中々前進しにくいです。だから、必要なタイミングで必要な物事に対しての投資は惜しみたくはないものです。
よく「忙しいから」「お金がないから」と流してしまうこともありますよね。でも、そこで投資したことによってどんな恩恵が得られるのか、どんな光景が見えるのかを考えて今まで以上の成果を発揮できるとイメージできたら一歩踏み出した方が良いんだと実感しています。
もちろん絶対に必要なものなんてありません。でも、どのタイミングで何を選ぶのか、その時々見極めて取捨選択することで自分の取り組みのスピードは大きく変わるでしょう。