青いクマが大好きなモノに囲まれて暮らすために通った跡

青いクマ〈未熟なくまえ〉が大好きなモノに囲まれて暮らすために自立を目指した課程の跡(記録)です。今を生きる人間としてその生き様を通して何かしら良いきっかけを与えられたらと思いこのブログを始めました。

「人がやらないこと」をやるとは

周囲との差別化において「人がやらないこと」をやりなさいと言われる場面は沢山あると思います。

ざっくりと「人がやらないこと」と言われても抽象的でよくわからないですよね。

でも、僕はすでに「人がやらないこと」をやっていることに人との会話の中で気付きました。

「人がやらないこと」とは自分ができることを人がやらないくらいの量を重ねていること、徹底していることです。

なので特別な技術や能力、経験がないとできないわけではありません。
例えば、僕の場合でしたらゴミ拾いが僕の「人がやらないこと」です。

定期的のゴミ拾い自体は老若男女やろうと思えば誰でもできる取り組みです。しかし、実際は人から言われてでもないのに個人1人で15分程度、家の近所のゴミを定期的に拾う人はほとんどいないと思います。

能力的は老若男女大半の人ができる取り組みではありますので「できない」のでなく「やらない」だけです。

だから僕の場合はこのゴミ拾いが「人がやらないこと」になるのですね。

「人がやらないこと」をやるとやはり目立ちますので興味を持たれるきっかけにもなります。

基本的に人は面白い人に惹かれるらしく、どのような人が面白いかというと「人がやらないこと」をやっている人みたいです。

ちなみにここで言う面白いというのは別に面白おかしくということだけではなく、他にも興味深いという意味もあります。

自分が周りの人たちから興味を持たれると次第にやることなすこと あらゆることに興味を持たれます。影響力を持つってそういうことなのでしょうね。

影響力を持つと誰かや何かを応援したり、盛り上げたりするときに大きな力を呼び起こすことができます。

自分が誰かや何かの力になるためにも自分自身の影響力を付けるのは大きな力の1つになるってことですね。

なので、僕もゴミ拾いに留まらず今後は更に「人がやらないこと」をやって影響力を付けていきたいです。

挨拶は「したい」からやる

​​挨拶は自分の意思で「したい」からやるので自分も相手も気持ち良くなるのだと思いますよ。 


僕が定期的に行っているゴミ拾いは始めた初期は道端のゴミを拾うと同時に、すれ違う通行人にも挨拶しましょうと唱えて実際に実行していました。


しかし、今はゴミ拾い時、通行人に意識して挨拶はしておりません。というよりも、いつの間にか通行人に挨拶しようという方針自体を忘れて黙々をゴミを拾っています。


忘れてしまうほど、知らない通行人に挨拶することは「したい」ことではなかったみたいです。 


あ、別に挨拶自体を否定しているわけではありませんよ。「しないといけない」からやるのと「したい」からやるのでは相手に伝わるものが違うということを言いたいです。


だから無闇にやらないのではなく、やりたかったら勝手にやることにしています。


挨拶すると周りの人たちとのコミュニケーションを円滑にしたり、仲を深めるきっかけになったり良いことばかりですよね。


しかし、だからといって挨拶はいつでも誰にでもするべきことだと強要してしまうと単なる味気ないルーティン作業になってしまうのですよね。 周囲との関係性を深めるきっかけにはなりません。 


また、僕のゴミ拾いの場合は自分の意思で済ませることはできますが、職場などのコミュニティ内に属する時ではそんなこと言ってられない場面が多いです。


では、気持ちが伴わなくても形だけでもやった方がマシなのか。と言われると形だけでもやった方がマシだと思います。


形式だけを繰り返していくうちに味気無さや無味乾燥のルーティン作業にうんざりしてきます。そんな状態に陥ると気持ちの良い挨拶を求めだします。


その時に「しないといけない」から「したい」に切り替わり、相手との関係性を深められるような挨拶を自分の意思で始められるようになります。


更にやりたくて挨拶しても相手によっては無視されたり反応が薄かったりすることも時にはあります。でも、その挨拶は「したい」と自分の意思でやっていることだから落ち込んだり相手を責める必要はありません。相手の反応が芳しくないのは相手の都合の話であって、自分は自分の意思のままに動けているのだから気にしなくて良いと思います。


挨拶は老若男女誰にでもできて、誰にでも挨拶する機会は日常の場面に無数にあります。


それを不本意にやらないといけない行為としてやるのは苦痛ではありませんか。だから僕は挨拶するときは自分の意思で「したい」行為として行ってみます。そのような態度は人に伝わりますから、自分の意思で行う挨拶なら受け取る相手も心地よいものでしょう。

隣の芝生が青く見えるだけではないのか

凄いと感じる人も1人で成果を上げているわけではありません。

誰かと協力したり力を貸したり借りたりして実現しています。だから、個人一人の能力だけ見て圧倒されたり引け目を感じる必要はないのですよね。本当は。

先日はマチホメ加西市フィールドワーク後の発表会が行われました。

加西市に行って現地の地域資源に触れたり現地の人たちと関わった上で自分はどんなことができるかを発表する場でした。

一緒にフィールドワークに行った人たちは料理が作れる人、webページが作れる人など其々何かしらの得意分野がありその時は圧倒されました。それに引き換え、僕は何もできない、取り柄がないと引け目を感じていました。

そんな中での発表だったのですが
1つのプロジェクトを目の前にしたら皆其々 得意なものがあるだけでそれだけでは一つのプロジェクトすら達成できないことを再認識しました。

プロジェクト1つを達成するためには料理作れる人1人だけでは達成できません。Webページを作れる人1人だけでは達成できません。プロジェクト1つを達成するためには色んな人たちの協力が必要となります。自分には取り柄がないと認識していた自分と状況は同じなのです。

そして、其々 自分の得意なものはその人が担当して、やったことないことや苦手なことは他の人が担当するという形で皆で補い合って初めて1つのプロジェクトが達成されます。

何か得意なものがあるから凄いとかではないのです。何も取り柄がないからダメでもありません。
其々自分の得意分野、専門分野(普段からよく関わっている分野)はあると思いますが、それは課題に対してのプロジェクトを実現するための力の一つとして機能して初めて活かされます。

くまえ ひでき

アウトプット シェアハウス

先日は大阪の芦原橋に「オモキチ」という通称で7人が住むシェアハウスに行ってきました。

そのシェアハウスの特徴の一つとしてオーナーさんのお母さんがほぼ毎日ご飯を作りに来てくれます。


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シチューは具が柔らかい

訪問当日もお母さんがシチューを作ってくれて僕はお茶碗4杯分食べました。これで代金400円だったので感動しました。

それに よく人がこのシェアハウスに来て一緒にご飯を食べているみたいです。

食事を通して会話が弾みまして、自分のことを人に伝えることで自分が何を考えているのかが整理できます。

1人で紙に書いたり、頭の中で思い巡らす時以上に整理されたように思います。

人に対して言葉で伝えるにしても、行動するにしてもアウトプットしていくことで持っているものは洗練しされます。

このシェアハウスの環境は色んな人と関われる機会が設けられているので、アウトプットに良いスポットになります!

くまえ ひでき



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春巻きの皮の中にアンコを詰めたお菓子(わかりにくくすみません)

自分の「できること」はどこにあるのか

今までの自分の習慣、時間を費やしたものの中に自分の「できること」が潜んでいます。でも、それを自分の「できること」と認識しないまま自分に「できること」が無いと見落としてしまうこともあります。

だから、自分のやりたいことが見つかっても、やりたいことの中で自分が「できること」って何だろうか?と思い悩んでしまいます。

12月1日に前回 加西市のフィールドワークに行ったことで自分が加西市を盛り上げるために何をやりたいかの発表会があります。僕もフィールドワークに参加したのでその時に5分間発表します。今はその12月1日に向けて発表内容をまとめている最中です。

まとめている最中、苦戦することの一つとして、やってみたいプロジェクト自体は考えたけどそのプロジェクトの中で自分が「できること」は何か見出だすことができないという点です。プロジェクト自体は考えたけど、それは誰がやるの?という有り様でした。

でも、今回のフィールドワークや発表の場をつくってくれた幸田涼さんにアドバイスをいただき、自分が「できること」がわかりました。
まず普段の僕の取り組みを思い出してみました。僕はゴミ拾い、ブログ、SNS、電話営業の仕事。。などなど細かく見てみると取り組み自体は色々やっていることがわかります。

その今までやってきたことは、繰り返しやってきて出来ますよね。つまり上に挙げた僕の普段の取り組みが僕の「できること」です。

例えば、僕はブログやSNSを使って加西市の良さを発信することを定期的に続けていくことが僕の「できること」の一つです。


自分の「できること」は自分の今までの経験の中に潜在しているということに気付きました。できることはその認識している事柄に限ったことではなく、今までの自分の習慣や沢山時間を費やしたものにもできることは潜んでいます。「できること」といったら今まで自分が築いた資格や免許、職歴、実績ばかりを認識しがちですが、それだけではないということですね。

最後にこの記事で挙げました今回僕が発表するイベントのFacebookページのリンク貼っておきます。

https://m.facebook.com/events/1691834474184873/

くまえ ひでき

お茶会兼ねたゴミ拾いをやってみて

先週18日の土曜日の朝の話ですが、初めて梅田でゴミ拾いをしました。しかも、人を集めての。


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更に雨天だったのですが、2人も来てくれて3人でゴミ拾いを行いました。

ゴミ拾いをしたといっても、ゴミ拾いの前に最寄りのカフェで集まった人同士でお茶会を行いました。

しかし、本来のスケジュールから大幅にずれて結果的に交流会が1時間以上、ゴミ拾いが15分程度と凄い偏ってしまいました。

自分のこのような主催者としての管理はまだまだでしたが、
参加してくれた人たちが主体的にこのお茶会もゴミ拾いも盛り上げてくれたので結果的に楽しくて実りのある集まりになりました。

この集まりを振り返って僕が思うことは、やはりゴミ拾いって誰でもできる取り組みですが、だからこそ参入しやすく親しみやすい取り組みなのかなと改めて思いました。

それにゴミ拾いに興味持ってくれている人には共通点があって、
それは自分でも何かしら周りのためにアクションを起こしている。または何をしようか決まっていないけど主体的に動きたいという点です。

そのような共通点を持った人たちの心の火をより強く燃やすよう促せるイベントにできたのならそれが僕にとって一番の喜びです。



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何かを失って何かを得ることの正体は。。。

僕たちは毎日、何かを得るために他の何かを手放しています。何かを失うことで他の何かが得れれます。

得ようとしているものは自分にとって価値の高いもので、失うものは自分で価値が低いものです。

何かを得ようとして何かを失うというのは、必ずしも何か自分の大切なものを犠牲にすることではありません。

ただ僕たちは自分にとっての価値の高いものを増やすことの繰り返しを日々行っています。ただ自分の好きなものに囲まれたいんですよ。


昨日、スーパーでのレジの会計で笑顔の良い女の子の店員さんだったので嬉しくなりました。

しかしその直後、自動精算機があり そこへ誘導されました。バーコードの読み取りは人がやって、お金を出すのは自動精算機相手だったのですね。

その笑顔の良い店員さんはどんなお釣りの渡し方をするのだろうと楽しみにしていた矢先だったのでがっかりしました。

レジの人によってお釣りの渡し方は様々なので、僕は普段の買い物でよくお釣りがわざと出るようにして清算を楽しんでいます。

お客の手に触れないように小銭の端っこを持ちながら渡す人。逆に片手で小銭をお客の手のひらに置き、同時にもう片方の手をお客の手のひらの下に潜らせて添えて渡す人もいます。

女の子の店員さんに後者の渡され方をされたこともありますが、その時はとても感動しました。


自動精算機の導入が進むほど効率的して楽で便利になるかもしれないけど、その分、人との間で起こる温かい物語が産まれる機会も減ってくるのは少し寂しいなとも思いました。

見渡せば、自動精算機を導入しているスーパーも最近は増えてきましたね。多分、店側の業務の効率化をはかるための施策の一つだと思うけど。

更に将来的にはスーパーでの清算は完全に機械がやるのが常識になるのだろうと思います。

AIや機械に取って代わるお仕事の一つとしてレジがありましたのを思い出しました。

でもそんな時代だから逆に、人の手で清算するお店を自店の特徴として差別化し、公に認知してもらうこともできるかもしれません。

これは人と人との触れ合いに重きを置いた結果です。逆に多くのスーパーは効率を重きに置いているから精算機を導入しています。

つまり、何を重きに置くか、どんな価値観を大事にするかの違いだけで失うと得るを繰り返していることに変わりはありません。

その上で僕は何を得続けて何を失い続けるのだろうか。思いに更けてみる。。


くまえ ひでき