青いクマが大好きなモノに囲まれて暮らすために通った跡

青いクマ〈未熟なくまえ〉が大好きなモノに囲まれて暮らすために自立を目指した課程の跡(記録)です。今を生きる人間としてその生き様を通して何かしら良いきっかけを与えられたらと思いこのブログを始めました。

今日は凶でも。。

切望するモノがあるのなら起こった出来事で一喜一憂する必要はないと思います。

正月三が日の最終日に大阪天満宮に初詣行ってきました。

参拝した後にクジを引いたのですがそれが「凶」!(写真ちゃんと写ってなくてすみません)


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しかも、今は動かずに慎重に待て!と書いていたのです!

しかし、日常の中でやはり動いた方が良いこともたくさんあるので参考程度にさせていただき、自分で選択、行動することに力を入れていきたいです。

このようにクジの結果が凶であっても何かしら前向きに奮い立たせようとする傾向があります。僕だけでなく多くの人がそうだと思います。

つまり仮に芳しくない結果が起こってもそれに対して抗するエネルギー自体はほとんどの人が持っているはずです。

単に闇を煙たがるのだけでなく、闇の先に光があるから抗するエネルギーで前進ができるのだと思います。

夢や希望を持とうと言うと胡散臭いけど、要は可能性は関係なく自分の欲望や願望に本気で向き合っていればそれを光として前進できます。

今回はとても抽象的になってしまいましたが、自分の思い通りにいかずに 傷ついてもこけても挫いてもそれ自体は前進することに何の障壁にならないことを実感しています。

くまえ ひでき

後悔した時の対処法

やりたい事ややるべき事を今からやろうと決めて今から動くことです。明日からではなく、これまでを切り離して今この瞬間から切り替わるというのが味噌です。

年が明けて2日目が過ぎまして、この期間に自分がやっておきたかった事、やるべき事があったのですが思ったよりも進みませんでした。
必要以上に寝すぎてしまったなど自分の時間の過ごし方において後悔する部分があります。
その瞬間は自分で良かれと選択をしたことなのでそれを咎めても仕方のないことかもしれません。ただ後悔する気持ちが残るだけです。

今までならこの後悔をずっと引きずってこれからの取り組みにも大きく影響を与えていました。
これまでができなかったのだから今から始めてもできないだろうと言い訳をして諦めて取り掛かれなかったり。

ただ、最近学んだことで人はいつも起こった出来事、物事に対して善悪、正誤など評価をしてしまう傾向があります。後悔するのも自己評価しているからです。

しかし、本来起こる出来事や物事自体には善悪、正誤などの意味や価値はありません。起こった出来事や物事に対して勝手に意味や価値を植え付けて、それで一喜一憂しているだけに過ぎないということです。

だから起こってしまった事は起こってしまった事であり、だからといって今からの自分の選択や行動に制限をかける必要はありません。そのため、これまでを切り離して今この瞬間から切り替わることができます。

そう考えると変哲もない日々だと思っていた毎日が次から次へと更新されてゆくのを実感できる毎日に変わるはずです。

自分の置かれている状況や状態自体は変わっていないことですが、
自分が毎日更新されるからこのまま自分の置かれている状況や状態自体も変わっていくのだろうと思います。

くまえ ひでき

良かれと思ったことはとことんやっていこう

明けましておめでとうございます。2018年になりました。

新年を迎えたからと言って自分の身体や能力に変化がある訳ではないですけどね。

ただ、一つの時間の通過点として着実に時は移り変わり歳を重ねていることは実感します。これは自分の意思ではなく勝手に流れてゆく。

外界や自分の身体的な部分はたゆまず変化していきますが、自分の状態や在り方は自分が望んで取りにいかない限りそのままです。そんな世界の中に自分は身を置いていることは確かです。

そんな当たり前の事実を言っているわけですが、それを忘れてせかせか置かれている状況に流されることは昨年多々あり改めて惜しいと思います。

勿論、昨年も自分の頭で考えて選択、行動したことも同じく多々あります。
思ってたものと違うとわかったり、むしろやらなかったら良かったと後悔するものも中にはあります。

ただ、自分の中での間違いを見出すことができたのだからそれが儲けだと思います。それだけでなく、実際に動いたことで少なからずどんな小さなことであっても良かったな、嬉しかったなと思えることも1つや2つはあるはずです。

何がともあれ、自分の意思で選択し行動した先に何が起こったとしても起こりゆることしか起こりません。何が起こったって結局生きている以上はそこからスタートしたら良いだけです。

ただ、じっと時を待つような生き方だけはやらない。僕はじっと時を待つような生き方を悪として自分の中から完全に排除していくこと。
同時に日々の選択量や行動量を増やすことに加速を付けることが今年、特にまず今年の最初の課題だと考えています。

自分の課題を自分自身に言い聞かせるため、そして同じような思いで新年を迎えた誰かに向けてこのブログに記録しました。

くまえ ひでき

ゴミ拾いを止めた理由

​最近は家の近所のゴミ拾いは行っていません。止めました。今までのゴミ拾いは役割を終えたためです。 


元々今年の夏季、仕事も何もなかった時に今の自分でもできることはないかと思いついたのがゴミ拾いでそこから近所のゴミ拾いがスタートしました。


毎回繰り返すゴミ拾いの様子はfacebookなどのSNSに投稿していたのでくまえ ひでき=ゴミ拾いという認知が定着してきました。


見てくれている人から色んなお褒めの言葉を頂いて、自分がやっていることが人の役に立っているのだと自覚ができました。


一人でほぼ毎日数分程度 外のゴミを拾うことは能力的には誰でもできることですが、多くの人がやらないことだから、それをやっていた自分でも凄いと思います。


しかし、毎回一人で黙々頑張って凄い!で?だから何なのだ?という点にぶつかり、結局この取り組みの先に何があるのか見出すことができませんでした。無味乾燥です。


というのも今までのゴミ拾いの役割はもう終わったからだと思います。今までのゴミ拾いの役割は自分のできることで誰かの役に立つために動く手段というものでした。


実際に行動して周りからも良い取り組みだとお褒めの言葉をいただき、更にゴミ拾いをやっていることがきっかけで新しいご縁をいただくこともありました。もう単に行動するだけでは話が進まなくなってきています。


今回、誰にどのようなタイミングで何を届けるのかという相手のニーズを把握することに意識の力を注ぐ時期にシフトしたのだと思っています。


手段はゴミ拾いである必要はありません。普段やっている日中のお仕事でも構いません。

単に良さそうだからやるのでなく、今後はいつ誰が何を求めているかなどニーズを掴み取るセンスを身に付けていきます。


くまえ ひでき

もう既に人の役に立っていた

人の役に立ちたいというフレーズはよく聞きます。僕もそのようなことを考えたり行ったりしていました。

でも、もう既に人の役に立っているということを最近になって認識しています。

人の役に立ちたいというフレーズの奥には自分は人の役に立っていないという意味が込められています。
ですが、本当にそうでしょうか。日常生活を振り返ると「ありがとう」と言われることはないでしょうか。


電車で席を譲ったら「ありがとう」

スーパーのレジで「ありがとう」

道端で人に道を訊かれ「ありがとう」

街頭で配っているティッシュを受け取って「ありがとう」

等々・・・


普通に生活しているだけでも「ありがとう」と言われることは沢山ありますよね。

でも人の役に立っていないと認識してしまうのは、日々の「ありがとう」の多くが当たり前として右から左へ抜けています。

お店でご飯を食べて「ありがとうございました!」と言われるのは本当に有り難いからではないでしょうか。

お店にお金を出してご飯を食べてくれることでお店の存続に貢献しているから有り難い。
お店が出すご飯を美味しく食べてくれているのが嬉しくて有り難い。有り難い要素は様々です。

だから、お店の人に「ありがとうございます!」と言われたら素直に役に立ったのだと認識した方が良い気持ちですよ。商売だから言っているとか わざわざ曲解しなくて良いではないですか。

更に言えば「ありがとう」と言われなくても生きている人は皆 誰かのために何かしら役に立っていると思います。

例えば、赤ちゃんも家族など周りの人に安らぎや癒しを与えてくれますよね。
逆に自分の苦手な知り合いも「自分はああなりたくない」と反面教師となり奮発するきっかけを与えてくれます。

このように皆が誰かの役に立っていて異なるのは其々の役割のみです。どんな役割として人の役に立つかの違いですね。

よって皆既に役に立っているのだから、単に「役に立ちたい」でなく「どんな役割で役に立ちたいか」を考えてみたら良いと思います。

くまえ ひでき

動きながら悩んで苦しむ

日々、大なり小なり様々な選択をしています。これまでの自分の選択を振り返ってみて「やった方が良かったな」とか「やらなければ良かったな」と後悔するものもあると思います。

よく「やった後悔よりやらなかった後悔の方が大きい」と言われますが、やった後悔も十分大きいですよ。

と過去のことを振り返ってくよくよしてても仕方がないです。本当に。これからどう頑張ったって僕にも誰にもどうすることもできませんから。

だから過ぎたことでくよくよするのは止めます。止めますと言ってすぐに止まる訳ではないですが、意思して止めます。

このように自分の力ではどうすることも出来ない物事で悩んだり苦しんだりすることは無駄なことだと頭ではわかっています。

しかし、ついつい自分ではどうすることも出来ないことに執着してしまうのですよね。

そんな場合、僕はまずとことん悩んで苦しみます。すると疲弊します。

疲弊すると悩んだり苦しんだりするパワーがないため、そんな時に「まあいいか」とクッションになるような気持ちが介入してきます。

更に別の価値観や考え方が入ってきて悩んで苦しむしか活路を見出せなかった僕に新しい世界を見せてくれるんですよね。すると元気になります!

ただ、悩んで苦しむ時はジッとするのでなく、動きながら悩んで苦しみます。ジッとしていたら「なんという時間の使い方をしてしまったんだ」と後から新しい後悔の種になります。

だから自分の取り掛かるべき物事に取り掛かりながら同時並行で苦しみ悩んだ方が良いです。

あれこれ取り組んでいるうちに意外な活路を見出すこともありますので、行動はどんなことがあっても続けていきたいですね。

「人がやらないこと」をやるとは

周囲との差別化において「人がやらないこと」をやりなさいと言われる場面は沢山あると思います。

ざっくりと「人がやらないこと」と言われても抽象的でよくわからないですよね。

でも、僕はすでに「人がやらないこと」をやっていることに人との会話の中で気付きました。

「人がやらないこと」とは自分ができることを人がやらないくらいの量を重ねていること、徹底していることです。

なので特別な技術や能力、経験がないとできないわけではありません。
例えば、僕の場合でしたらゴミ拾いが僕の「人がやらないこと」です。

定期的のゴミ拾い自体は老若男女やろうと思えば誰でもできる取り組みです。しかし、実際は人から言われてでもないのに個人1人で15分程度、家の近所のゴミを定期的に拾う人はほとんどいないと思います。

能力的は老若男女大半の人ができる取り組みではありますので「できない」のでなく「やらない」だけです。

だから僕の場合はこのゴミ拾いが「人がやらないこと」になるのですね。

「人がやらないこと」をやるとやはり目立ちますので興味を持たれるきっかけにもなります。

基本的に人は面白い人に惹かれるらしく、どのような人が面白いかというと「人がやらないこと」をやっている人みたいです。

ちなみにここで言う面白いというのは別に面白おかしくということだけではなく、他にも興味深いという意味もあります。

自分が周りの人たちから興味を持たれると次第にやることなすこと あらゆることに興味を持たれます。影響力を持つってそういうことなのでしょうね。

影響力を持つと誰かや何かを応援したり、盛り上げたりするときに大きな力を呼び起こすことができます。

自分が誰かや何かの力になるためにも自分自身の影響力を付けるのは大きな力の1つになるってことですね。

なので、僕もゴミ拾いに留まらず今後は更に「人がやらないこと」をやって影響力を付けていきたいです。