誰かと一緒に食事する方が楽しい理由の一つ
一緒に食事をすると同じ空間でその場のあらゆるものを共有できるから。
ただ僕はそもそも誰かと一緒に食べようと独りで食べようと旨いものは旨い、不味いものは不味いとしか考えていませんでした。くまえ ひできです。
先日、職場の人たちと仕事帰りに表参道のbillsというお店にパンケーキを食べに行きました。
とは言っても僕が注文したのはチアシード(チアという植物の種)を使ったプリンみたいな甘味でしたが。
多くの人がパンケーキを注文しましたが、他にもパブロバ(メレンゲに生クリームや果物を乗せたの)など別の甘味を注文する人もやはりいました。
僕のチアシードの甘味が先に来たので完食してしまったのですが、後からパンケーキやパブロバなどが次々と来た時に皆がそれぞれ自分の注文した甘味を周りの人に少し分け与えてシェアをしました。
有り難いことに先に完食してしまった僕にも分けて共有してくれたのですが、僕も同じように交際相手とご飯に行った時に分けた共有したことあります。
どうして僕は自分の注文したものを相手と共有したのかというと自分のものだけでなく僕の分も味わうことができたら味わう楽しみが一緒に倍になると思ったからです。
今回周りに自分の頼んだ甘味を周りに共有してくれた人たちも同じような思いなのかもしれませんね。
注文したメニューが同じでも人によって感じ方はそれぞれだし、メニューが異なれば今回のように味わう楽しみが倍になります。
あと、知らない名前の料理が出てきたらそれを調べてどんな料理があるかを一緒に知って話題にするのも楽しいですね。
Bills表参道店
http://billsjapan.com/jp/%E8%A1%A8%E5%8F%82%E9%81%93
やらされる感に浸らないように
言われる前にやるよう頑張ります。
今、お笑いコンビ「ロザン」の菅 広文さんの「身の丈にあった勉強法」という本を読んでいます。くまえ ひできです。
そこに「宿題やった?」と訊くことで自らやる行為からやらされる行為になるとあります。僕にも思いあたることがあります。
勉強では無いですが小学生くらいの時に、人からお菓子か何か物を貰うことがありました。その瞬間に傍に居た母親から「ありがとうは?」と言われることがありました。
僕は「ありがとう」を言わされる気持ち一杯になったことを思い出しました。
今振り返れば目の前で「ありがとうは?」と指示されると自分の中で言わされた感が溢れてて、同時に「ありがとう」の感謝の気持ちは相手には伝わらなかったのではないかと思います。
勿論、伝わった伝わらなかったなど相手が意識していたかどうかはわかりませんが。
ただし、母親も僕への教育として、または相手への感謝の気持ちを親子共々伝えたくて僕に「ありがとうは?」と言ってくれたのだと思います。
だから、「ありがとうは?」と言われる前に僕が早く「ありがとう」と言えば良かったのです。
つまり、人から言われる前にやれってことですね。
なので、言われる前にやるように頑張ります。
「身の丈にあった勉強法」
菅 広文 著
幻冬舎
https://www.amazon.co.jp/dp/B0772LG4D1/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1#featureBulletsAndDetailBullets_secondary_view_div_1520909557639
自分のキャラクターは作るのか滲み出るのか
自分のキャラクターは敢えて作らなくても、日々の取り組みの中で滲み出てきます。くまえ ひできです。
優しそう、明るそう、穏やかそう、厳つそう。自分は周囲から何かしら印象を持たれています。
その印象から自分のキャラクターが定着することもあります。
見た目や言動を変えて、自分のキャラクターを意図的に作ってしまう。服装や髪形など見た目を変えたら一番わかりやすいですね。それに言葉遣いや振る舞いを変えても接する人にはわかりやすいです。
しかし、日々の活動や取り組みの中での振る舞いから自分のキャラクターが滲み出てきます。
日々、自分のやるべきことややりたいことに集中、没頭するとその時々の場面より、自分らしさが良くも悪くも出てきます。
例えば、いつも約束の時間を守っていたら安心できる人、 しっかりしている人という印象が定着します。
また、期限が迫っている時には切羽詰まってピリピリして他人に当たる人は追い詰めたら厄介な人、恐い人と定着します。
自分で意図的に作るキャラクターはインパクトは強烈かもしれません。しかし、日々の取り組みから滲み出てる自分のキャラクターの方が周りから定着しやすいと最近の自分を振り返り思いました。
あだ名無くてもタメ口でなくても構わない
あだ名が無くてもタメ口でなくても仲良くはなれると思います。くまえ ひできです。
新しいコミュニティに入ったり、初対面の人と出会った時馴染みたい、仲良くなりたいってほとんどの人が思います。
そのために あだ名を付けたり言葉遣いを敬語からタメ口に変えたり色んな工夫がありますよね。
あだ名や敬語の有無などによって確かに親近感は違います。
でも、仲良くなるって無闇に仲良しな表面をつくるのでなく、
日々やり取りを続けていく中でいつの間にか仲良しになっていくものだと思います。馬が合う者同士なら表面的にも本質的にも自然に。
あだ名も日々のやり取りの中でちょっとしたことがきっかけでその呼び名が定着することもありますね。タメ口も状況によっては咄嗟に出てくることもありますよね。
仲良くなりたい、
馴染みたい
なら相手、周りと関わっていき続ける。関わる回数を増やす。ってことですね。
攻め際と引き際
壁に当たった時、自分はこの程度の人間なんだと諦める場合と、克服したり上達しようと頑張る場合があると思います。
今日はお仕事お休みの日でしたが、少し前日の作業が残っていたのでちょっと取りかかっていました。くまえ ひできです。
パソコン作業だったので家の寝床で毛布くるくるになりながらやっていたのですが、それが僕の場合は間違いだったようです。
落ち着く環境に身を置いていると安心して集中力がなくなります。今までもそんな場面はありましたが、最近は常に誰かと居るためか一人で布団に身籠ることってこんなに落ち着く状態なんだと一番味わいました。で、結局眠ってしまいました。
今日ほど作業やる場所を選ぶ必要性の大きさについて実感することはありませんでしたね。
今後は眠ってしまうくらい安心できる場所で頑張るのは諦めて、捗る場所で作業していきたいと思いました。
攻める場合はとことん攻めて、諦める場合は潔く身を引いて、メリハリをつけて物事と関わっていきたいですね。
バランス取って
多くの物事は絶対的な正解がないから自分の考えって持ってないと流されるなと実感します くまえ ひできです。
唐突な質問だったり自分が思ってもみなかったの事を言われた時、言葉に詰まってしまいます。失望されたり怒ったり相手の反応を怖かっているのでしょうね。
どんな表現や単語を使ったら良いか迷うことやそもそも意味が理解できないことあります。
コールセンターのトークスクリプトのような模範解答を用意しておく。
その場で即興的に自分の考えを伝える。
など反応も色々あって、時と場合によっても使い分けるものなんだろうと思います。
でも、結局どんな反応しても喜ぶ時は喜ぶし怒る時は起こるし悲しむ時は悲しみます。相手の働きかけに対する反応において思い悩み「すぎる」のはナンセンスだと僕は思いました。
健全な不本意 不健全な不本意
僕は不本意なことの中でも、シックリくる不本意なこととシックリこない不本意なことがあることに気付きました。
最近、池田潤さんの「無愛想のススメ」という本を読みました。くまえ ひできです。
不本意なこととは自分から主体的にやっていこうとしないことです。
実際、自分から実行することはないけど人に言われたのがきっかけで実行せざるを得ない場面もあると思います。
でも、表面的には同じでも動機が異なると生まれるエネルギーも全く違います。
シックリくる不本意なことは相手を喜ばせたい、楽しませたいという動機で動いています。相手にとっても自分にとっても好循環を生み出せます。
シックリこない不本意なことは相手から低定評を貰ったり否定されるのが怖いのが動機で動いています。軸のない不安定感があります。不満だけが溜まります。
結局どのように振る舞っても関わる人たち全員に受け入れられる訳ではないです。
万人に受け入れられない事実をすんなり受け止めて、Yes Noのメリハリをつけて黙々日々の選択する方が健全なのかもしれません。
「無愛想のススメ~人間関係が劇的に改善する唯一の方法~」
池田 潤 著
光文社
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