青いクマが大好きなモノに囲まれて暮らすために通った跡

青いクマ〈未熟なくまえ〉が大好きなモノに囲まれて暮らすために自立を目指した課程の跡(記録)です。今を生きる人間としてその生き様を通して何かしら良いきっかけを与えられたらと思いこのブログを始めました。

手段ややり方に固執せず、柔軟に

次の勤め先が決まって移動手段について改めて考えています くまえ ひできです。

僕は大阪市在住で、大阪市やその近隣までの範囲ならいつも自転車を使っています。天候や季節は関係なく自転車は僕の足として大活躍です。

でも、この記事を書いた今日は電車で移動しました。今までは交通費抑えられるという理由で自転車で移動していました。でも、今回はお金をかけて得られる価値の方に僕は惹かれて、電車を移動手段として選びました。

ここで今一度、自転車と電車、それぞれのメリットとデメリットを挙げてみました。

●自転車で移動
〈メリット〉
・交通費を抑えられる
・適度な運動になる
・小回り効いて、様々な道やお店を見つけられることも

〈デメリット〉
・天候に影響受けやすい(ex雨の時はずぶ濡れ)
・荷物はあまり持てない
・都市部は駐輪場所がなかなか見つからない(すでに埋まっている)
・指定の駐輪場所に置かないと撤去されることも
・道中でパンクなど故障


●電車で移動
〈メリット〉
・あまり疲れない
・雨風避けながら身なりの整った状態で目的地に行きやすい
・読書など乗車時間を有効活用

〈デメリット〉
・行き帰りの交通費が必要
・満員電車の時間帯は上のメリットが無効になりやすい
・人身事故などダイヤの乱れなどによって到着が大幅に変わることも


以上です。やはり一長一短ですね。今回は上の電車のメリットに恩恵を感じたため電車で移動することになりました。

ただ、だからずっと電車に!と極端に決めることではないです。その時々の状態や状況に合わせて使い分けていきたいものですね。

大半のことは手段ややり方は多種多様なので、これに限らずその時々に沿って柔軟に選んで決めていこうと思います。

数年後も僕は振り返る。何が映ってたら嬉しい?

最近、大阪市の児童いきいき放課後事業の取り組みにボランティアの見学に行きました くまえ ひできです。その取り組みは学童保育みたいなものです。

見て回るつもりでしたが、実際は小学1、2年生の子たちと遊んでいました。

初対面の人間に対して「遊ぼう」とベタベタしてきたり、のしかかってきたり遠慮を感じられず、僕にとっては新鮮さを感じました。

そこに新鮮さを感じるということは、僕は日頃どれだけ自分の事に向き合えていないかを表しているのかもしれません。

僕の10、20年前の未成年時代を振り返るとあーすれば良かった、こーすれば良かったと後悔ばかりであまりパッとしません。

勿論、今からでも挑戦はできますが、当時の心身の状態や自分の置かれた環境の再現は不可能です。今は今の心身や環境の中からしか始めることはできません。

そのことを踏まえて今どう生きたいか、どう在りたいか、ちゃんと向き合う必要があります。同時にその時々、自分の思い付く自分ができることを試していくことです。

日々の煩わしさに振り回させるばかりですが、それを怠って今、10、20年前を振り返ると今同じような後悔をまた数年後すると思います。振り返る日は生きている以上は必ず来ます。

今から10、20年後の自分の歩んできた道程を振り返った時に何を感じてみたいのだろうか。

自分は生きている限り、切っても切れない存在だから。

昨日7月17日(月)丸一日を寝て過ごしてました、くまえ ひできです。

昨日は外でのお仕事や人との約束は入れてなかったものの、やることは決めていました。でも、朝起きてまた寝て、昼過ぎに目が覚めてどうでもよくなりまた寝て目が覚めたら夜中でした。

どうでもよくなるとありますが、一度失敗して(失敗とはここでは起きて活動できなかったこと)もう予定通りにいかなかったのでもうダメだと開き直っていることを意味しています。

ここ最近のことではなく、10代の学生時代からこんなことが頻繁にありました。何年も同じことを繰り返して、さすがに胸糞悪いです。それに誰かが死んだようなどうしようもない気持ちで一杯です。

でも人が死ぬのと時間が過ぎるのは同じことなのかもしれません。自分は今もピンピン生きていますが、昨日2017年7月17日のくまえ ひできとして今を生きることはできません。

過ぎたことを咎めたり、悔いたりしてもどうしようもないことはわかっているものの、それが自分の人生の中で起こった事実であることを信じたくない。できることなら、他人が自分を見限り諦めるように自分も見限り諦めたいと考えても仕方のないことをぐるぐる考えていました。

でも、他人が自分を手放すことはできても自分は自分を手放すことができないのなら、どんな時でも自分を奮起させ、背中を押してくれる存在も自分しかいないのだということに繋がりました。自分がもっとも頼りになる存在って結局自分なのだろうと感じました。

僕は今までの時間の使い方や生き方を振り返ると自分のことを大切にできているとは思いません。自分の人生を粗末に扱った自分を許せません。

と同時に今からの残りの自分の人生、自分には僕のために尽くしてもらおうと頼りにしています。

今の自分が恵まれているかというと恵まれていると思う

生きていれば嫌なこともあれば、事が思い通りにならないこともありますよね。それでも恵まれていると感じている、くまえ ひできです!

自分の恵まれているor恵まれていない、豊かであるor豊かでないなどの認識は今の自分以外の何かと比較してそれが言えます。その何かというのは過去の自分であれば、他人であることもあります。

僕はどうして今、自分は恵まれていると思えるかというと、いつどこにいても多くの情報を知って多くの人とやり取りできるためです。

インターネットで色んな情報を入手し、地域関係なく色んな人とやり取りができます。図書館や本屋さんに行っても読みたい本も見つかりやすいです。通信費や書籍代はかかるものの、それ以上の負担なくありとあらゆるモノを知れて関わることができます。

全ては自分が努力してそのような環境を得たわけではないですが、そんな環境に生きています。僕に限ったことでなく、今の日本人の多くがそうなんですけどね。

それを恵まれていると思えるのはインターネット自体がない時代に山奥で暮らしている昔の人をイメージして比較しているからです。

更に自分自身も現在は五体満足で手足も使えるし、目も見えるし(視力は良くないが)、耳も聞こえるし。。

それを恵まれていると思えるのは今後もし手が使えなくなったらとか耳が聞こえなくなったらとか考えたら、今の自分自身の状態は恵まれていると感じれるためです。

普段当たり前だと思っていることは今の自分よりも酷な環境、状況と比較をすることで、今の環境や状況が当たり前でなく有り難く恵まれていることだということがわかります。

僕は事がうまく進まずに調子が悪い時、このように今の状況や環境を振り返って今の自分より酷な環境や状況をイメージして比較します。

すると、無駄な力が抜けて気持ちが楽になりますよ。日々起こる出来事に振り回されずに、日々気持ちよく過ごしたいものです!

「誕生日おめでとう」って言われたかったら、まず自分から「ありがとう」伝えても良いかも

今回28歳から29歳へ年を取りましたくまえ ひできです!

今まで誕生日は祝ってくれることばかりに意識が向いていました。最近はないですが、子どもの時は実家で家族がケーキやプレゼントを用意して祝ってくれて特別な日の一つでした。

年を重ねるにつれて、そこまでしてもらわなくても構わなくなり今は誕生日だからといって特別な日という実感はありません。

しかし、誕生日にはSNSなどを介して人から「お誕生日おめでとう」というメッセージをいただくことがあります。それも普段やり取りをしている人から、全く接点のない人まで様々です。

このように毎年、誕生日は他人から「与えられる」というのが普通だったのですが、今年はちょっと違いました。

誕生日前日、この人からお誕生日おめでとうって言われたいなという欲が芽生えました。ですが、そんなにやり取りや付き合いも無いのでその相手からは来ないだろうと予想できました。

だから、おめでとうのメッセージを待つのでなく、自分から今日はお誕生日だということを発信することにしました。でもそれだけだと、だから何?で終わるのでそれまでです。

なので、接点自体は少なかったけど、その少なかった接点でも28歳の時に仲良くしてくれてありがとうという気持ちを表現することにしました。

その時、ふと思ったのです。今まで「おめでとう」を待つスタンスだったけど、今回は自分が周りに「ありがとう」を伝える誕生日であっても良いのではと。

なので、その人だけでなく、何人かに「ありがとう」のメッセージを送りました。1人ずつ送っている最中に先に「ありがとう」のメッセージを送ってくれる人もいらっしゃいましたけどね。

色んな人に自分から「ありがとう」を伝えていくと、お返事をいただいた人の中には「(僕からの)メールをありがとう」「気持ちを届けてもらった気がして嬉しい」などの反応をしてくれた人もいらっしゃいました。

今までの誕生日の在り方がガラッと変わりました。祝ってもらうこと前提の誕生日も良いけど、自分が普段の感謝を伝える日として誕生日を活かすのも有りだなと実感しました。

あと、こちらからメッセージを送ってもお返事が返ってこない人も中にはいます。相手は自分のことに興味ないのかもしれません。でも、それに対して不貞腐れたり落ち込む必要はないです。

何故なら、それでも自分が感謝を伝えたい程魅力的な相手であることは変わりないのですから。その相手に対する気持ちをぜひ大切に仕舞っておきましょう。

人から頼られる側だけでなく、人に頼る側も準備って必要だと思う

前回のクビになりましたのブログ記事のアクセス数が普段の何倍もありビックリしましたくまえ ひできです!

職場を後にして翌日に自分を気にして何か力になることはないかとお電話してくださった方がいます。ありがたいですよね!

その時にこれから自分がこれからどうしていきたいのか、何を目指したいのか、何を身に付けていきたいのかをはっきりと伝えることができませんでした。勿体ない!

漠然とした目的や目標があっても掘り下げられていない。そもそもその目的のためにその目標である必要はあるのか、本当にそれを目指したいのかなど。。そんなあやふやな状態では頼りの相手も先に話を進められないし、アドバイスもしようがないです。

例です。
学校で算数が苦手で数学を先生に訊きに行きました。「因数分解の単元がわかりません。教えてください。」と「因数分解の単元のこの問題を~やってー解いたのですが、どうしても正解になりませんが、どこがおかしいでしょうか」ではどちらの方が解決し前進しやすいでしょうか。

後者の方が自分がどこが自分の問題なのかわかっているので、先生もピンポイントで教えやすいです。教えてもらう側も自分の問題点がピンポイントにわかっているので、他人の力の恩恵を感じて受け取りやすいのです。

だから最善を尽くすなら準備って必要だと思います。上の例でいう準備っていうのは自分でその単元の問題を実際に解いてみて試行錯誤するってことですね。

人に頼るって上手く事を進める上でとても大事なことだと思うけど、自分の課題をそのまま他人に押し付けても何も事は進みません。

ただ、自力で取り組む時ってどうしても孤独を感じることがあります。僕はそれで中々取り組みが円滑に進まず、もたもたしていました。

なので、そんな時は自分の原動力となるものを用意することにしました。人によって何が「これのお陰で力が湧いてくる!」という原動力となるものは様々です。

例えば、僕なら今は居ないけど将来パートナーができた時のことを考えます。姿形もないですが、その人に出会うために今があるのだと思うと力が湧いてきます。

あとは、素直に貪欲になることですね!

クビになるって変哲のない出来事で、別に残念に思う必要ないと思う

昨日でお仕事がクビになって一段落終えました、くまえ ひできです!

仕事がクビなりましたと人に言うとよく大変だねとお返事いただけます。でも、大変なことでもなく、辛いことでもなく、変哲もない普通の出来事だと思うのです。

職場がなぜ僕をクビにしたかというと職場が求めている人材になりきれなかったからです。求めない人をそこに置いてても職場にとっては負担になるだけです。その会社、職場全体のことを考えたらそれが最善だからクビにしただけです。

このようなことって色んなコミュニティでも言えますよね。学校の部活動や社会人サークル、起業家集団など色んなコミュニティで、その基準や色に染まりきれない時もあります。やはりコミュニティの繁栄のため、質を守るために染まれない人は放置されたり隅に追いやられたり淘汰されます。

でも、それは酷いことでも残酷なことでもございません。コミュニティ全体のためを考えたら普通の事です。だから、自分が周りの期待に応えられる、自分がコミュニティ全体を底上げできる存在としてコミュニティに居ないとどんなに評判の良い、恵まれた環境のコミュニティでもそこでの存続は難しいものです。

傍から見て魅力的な職場や部活動、起業家集団などはたくさん巷にあると思います。その環境に飛び込んだらもっと自分は良くなる、自分の居場所になれると感じやすいですよね。

でも、他人から用意されたコニュニティに身を委ねただけで自分がより良くなることはないのです。確かに人は環境によって大きな影響を受けます。と同時にコミュニティ内の周りの人たちにとっても自分はそのコミュニティを構成している一部分であり
環境そのものなんです。

だから、自分好みのコミュニティに自分が受け入れられるかどうか以前に、まず自分がそのコミュニティが更に盛り上がるために尽くすことができるかどうかが大切かと。それが自分にとってそのコミュニティを長く居心地のいい環境にすると考えています。

自分の内面から染まりたい!と思えるような出会いを求めるところからでね!

ってことでそんなことを意識しながら僕も再出発します!