みんなで食べても不味いものは不味い、1人で食べても美味しいものは美味しい
こんにちは、くまえ ひできです!
最近の暑さのせいか食欲は前より下がってきてて、最近では1日1食の日も少なくないです。しかし、その1食がその1回であるせいか、ご飯がとても美味しいです。僕は食べること自体に夢中となり他のことが疎かとなります。なので、誰かと外食や交流会、ランチ会などの席でガッツリとご飯が出た時は葛藤します。
僕はそもそも誰かと約束して会う時や交流会、ランチ会の時は美味しいご飯を食べることが目的ではなく相手や周りの人とのやり取りを目的としています。なので、飲食はせいぜい飲み物とパン1個かおつまみの豆とかで充分だと思います。
前の記事で「お友達をご飯に誘う~」と書きましたがその「ご飯」とはパン1個ほどの軽食をイメージしています。もっとも、美味しいご飯を食べることが目的なら別ですけどね。
みんなでワイワイしてご飯食べる機会があると「みんなで食べたら美味しいね」と仰る方もいらっしゃいます。確かに飲食を介すと緊張が解れやすい、周りと良好な関係を築きやすいなどメリットは聞きます。でも、飲食無くても、お互いを開示していく中で気持ちは解れていきますし、結果良い関係を築けることに繋がることもあります。
だから、僕は人と出会う時は人とのやり取りに集中したいし、ご飯食べる時はご飯食べることに集中したいです。一人でも複数でも味は変わりません。
・・・と言えずに僕は今まで「みんなで食べたら美味しいね」→「うん!」といって済ませていました。相手に変に思われたくない、周りと差し障りが無い関係をつくりたいため自分の考えを押し殺して同調していました。
自分の気持ちを表現できないって苦しいんですよね。なので、できる限り自分の価値観に基づく考え方を表現する機会を増やしていきたいと思います。普段口に出さない自分が根元で感じていることを口に出すことで、周りからどんな反応が得られるのかちょっとした冒険感覚です。
知識を知恵に変えていく
こんにちは、くまえ ひできです!
僕はコールセンターでサービス提案の発信業務をやっているのですが、そこでミスをしてしまいました。
電話先のお客さんの意図を理解できずに相手が求めている返答ができなかったというミスです。
それによってお客さんから「よくわからないからもういいや」となり終わりました。
復唱できていなかったことや相手の質問に対して答えられていなかったことができていないので「やるように」と上司から指導してもらったのですが、
そもそも僕が何故、相手が求める返答ができなかったか考えてみました。
相手の意図がよく理解できていない状態や曖昧な状態に対して僕は相手を理解しようという意識よりも何とか提案をしようということにばかり
意識が向いていました。つまり、自分のことばかり考えていたのです。だから、ヘンテコな返答しかできずに会話が噛み合わなかったのだと思います。
頭ではまず相手をヒアリングしてから、理解してなどと考えていても、いざそれをやる実践の場に立たされたら結局、普段考えていることとは違った行動をとってしまう。普段考えていることが自分の在り方として身に付いていないのだと実感しました。
そんなことが起こるのは結局、行動量が不足しているのだと思います。やはりそこですね。
行動量を増やすために今回のように提案ならこのコールセンターでの業務以外にも人に提案するような機会を作っていけば良いのです。別にお仕事でなくてもお友達をご飯に誘うのも自分が読んで感動した本を人に薦めるにしても提案ですからね。
この記事を書いててふと思ったのですが、行動するって言い換えたら、自分の頭にある知識をあらゆる現場で知恵に変換して表現することなのかなと閃きました!
だったら、知識を知恵に変換していきたいものが山ほどありますよー!
居心地良い環境は自分の拠り所が自分にあってこそ実感できる
7月になってから暑すぎですね。こんにちは、くまえ ひできです!
環境は大事、自分がより良くなるために環境を変えるなど、自分がどんな環境に居るかの重要性をよく見聞きすると思います。が、僕はそれを鵜呑みにしていました。ここで言う環境とは「自分の周りの付き合う人々」のこととしてお話します。
自分の心地よい環境に身を置けば、それで僕は「自動的に」良くなると考えていました。んー。それで周りとの関係が続くはずがないんですよね。環境が自分を受け入れるのはそこに居る人たちにとって何かしらのメリットがあるから受け入れたわけです。でも、それに応えられなかったり、その環境をより良くしようと自ら動かない人は不要です。煙たがれます。淘汰されます。
自分にとって周りの人たちは環境を成している一部分です。同じように周りの人たち一人一人にとっても自分はその環境を成している一部分です。自分が環境の一部分である周りの人たちに期待するように、周りの人たちも環境の一部分である自分に期待しています。なので、一方的に自分の拠り所を提供してほしいと環境に近づいても、それは自分の拠り所として成り立たないのです。
何かのコミュニティに入ったりする時は完全に環境任せにするのでなく、自分が環境をより盛り上げようという態度で関わった方が結果的に自分も環境も豊かになれると思います。自分を拠り所にした人がより良い状態を目指して、良い環境を更に盛り上げようって関わることで調和がとれるでしょうね!
大切にしたい好きなものと手放したい好きなもの
こんにちは、くまえ ひできです!
最近、僕の好きなものって本当に自分にとって好きなものなのかな?って考えていました。すると僕は好きなものは2種類に分けられました。
まず、それ思ったり関わることで活力がみなぎったり、強いこだわりを持って力を発揮するなど良い影響をもつもの。例えば、自分に子どもの居る人で自分の子どもと関わってたり、その子について考えてたりすると大変なことがあっても頑張ろうって力が湧いてくると思います。僕は子持ちでないですが僕の周りに居る子持ちの親はそんな人が多いようです。
もう一つはそれに関わっている時は良くても、後から後悔したり後ろめたさを感じるなど良くない影響を与えるもの。どうして後悔したり後ろめたさを感じるのでしょうか。それはその好きなものが一時の快楽であったり気休めだったり現実逃避としての役割をしているためです。僕は暴飲暴食して自己嫌悪に陥ったり、前の記事に書いたように必要以上に寝て後悔することはありました(他にも色々ありますけどね)。
また、好きなものが自分にとって良い影響をもたらすか、良くない影響をもたらすかも人によって異なります。人それぞれによって背景や価値観も違いますから。例えば、仕事や勉強に集中したいから恋人いらないという人もいれば、恋人がいるから仕事や勉強もより頑張れるという人もいます。なので、恋人がいることやいないことがどうこうでなく、その状態が自分にとってどんな影響を与えるかです。
自分にとって活力をもたらす好きなものを残して、自分にとって活力を奪う好きなものを手放すこと。よって毎日を好きなものに囲まれながら今より気持ちよく生きてみたいものですね。
虎の威を借る狐であるのか、金棒を担ぐ鬼であるのか
最近、インターネットラジオ発信を止めました。
こんばんは。くまえ ひできです!
僕は先日まで ゆめのたね放送局というインターネットラジオ放送局で番組を一つ担当し発信していました。このラジオ放送局はラジオという一つのメディアを用いて一般の方が力一杯周りの夢や取り組みを応援したり、盛り上げたりできる放送局です。
2015年6月から大阪府門真市でこの放送局が開局して、同時に僕も番組を持って毎週、隔週で発信して約2年が経って今に至ります。その間にゆめのたね放送局は関西から飛び出し、中国地方、四国地方、中部地方、関東地方。。。と新しい放送局を次々と開局し現在も着実に全国展開を進めています。
テレビのニュースやドキュメンタリー番組、新聞でも取り上げられて、全国のゆめのたねラジオパーソナリティの数も僕が知っている限りでも400人はいらっしゃいます。
そのような右肩上がりで盛り上がっているゆめのたねのコミュニティから離れるのは勿体ない、続けてきたラジオ発信を止めるのは惜しいという方もいらっしゃるかもしれません。
でも、僕が今欲しいのはそこではないのです。「ゆめのたね」というブランドや「ラジオパーソナリティ」という肩書などのフィルターを失った今だからこそ自分のその時々の置かれている有り様がやっとダイレクトにわかるのです。
今までは「ゆめのたね」という盛り上がっているコミュニティに所属しているお陰で初対面の人からもまず ゆめのたねラジオってどんなの?っと興味を持ってくれました。「ラジオパーソナリティ」というと凄いね、どんなこと話しているの?と興味を持ってくれました。
ここまで気付いた人は気付いたかもしれませんが興味持ってくれたのは「僕」自身についてではないのです。あくまで「ゆめのたね」や「ラジオパーソナリティ」に惹かれています。まさに虎の威を借る狐です!
そんな僕から「ゆめのたね」や「ラジオパーソナリティ」を取ったら何が残るのでしょうね。それが明確にわかるのでその身に付けている魅力的な価値を脱いで丸腰になりました。
そして、その自分自身の持つ魅力がダイレクトにわかるということは進歩したら、その分ダイレクトに箔が付いたこともわかるということです。丸腰になることで自分自身に魅力がはっきりさせ、自分自身の魅力を磨いていけば良いのです。方向性はまだ決めてませんが。
丸腰でも人に何か頼られたりお願いされたりできるくらいの魅力を培って、その上でアップグレードのツールとしてゆめのたねなどの魅力的な価値を身に付けるのならそれは鬼に金棒になるのです!
漠然として申し訳ないですが、要は丸腰になった僕が目指すものは鬼ってことですね!
ゆめのたね放送局HP(各パーソナリティのラジオ番組聴けます!)
http://www.yumenotane.jp
必死に生きていない人はいないのです
こんにちは、くまえ ひできです!
1週間以上期間が空いての久しぶりに記事を書きました!その間、特に仕事など以外で居る間はずっと寝ていました。何もする気になれませんでした。体調不良で寝込んでいた訳ではなく、外界の情報を遮ったほぼ現実逃避ですね。
そんな中、僕の周りでは(特にSNS)有名人の死去のニュースにより「いつ終わるかわからない自分の命だから悔いなく一日一日を大切に生きていきたい」みたいなことを呟いている人も少なくありません。
そんな人たちから見たら僕は自分の人生を大切にしていない、人の命を冒涜していると捉える人たちもいるだろうと思います。僕自身も後から振り返ってどうしてこんな時間の使い方をしたのだろうかと不快な気持ちが込み上げてきました。
でも、それでも周りの皆と同じ、必死であることには変わりないのです。何故なら不快な気持ちになったり、後悔するのはそれだけ必死だからではないでしょうか。
あの人は必死さが足りないということも聞くと思いますが、そうであっても どんな立場、状況の人であっても皆必死に生きています。各々、その時々によって必死になっている物事やレベルが人によって異なるだけですね。
子どもの時に人前で発言するかどうかについて必死に考えていた時期がありました。でも、今は発言したいことがあれば発言すべきと決着はついています。それよりも今は、発言してどうしたら相手に自分の思いのままに発言内容が届くのかという点で必死に考えるようになりました。このように必死になる中身が変わるだけで何かしらに対して必死であることには変わりないってことです。
ただ、その時期をその必死にエネルギーを注いてきた跡が積み重ねてきた時間として残ります。その時に自分の生き方や在り方としてこのままで良いのだろうかと考え直す機会がつくれます。
なので、僕はこれまでを振り返った時に自分の人生にどんな時間の積み重ねてみたいかと思った時にハッとなって僕は突き動かされましたね。
このブログを書くのもそもそも伝えたいことを思いのままに発してみたいから始めたので今の僕の必死の対象も変わりつつあります。
将来の夢が無くてもやっていける!
こんばんは、くまえ ひできです!蚊が出てきましたね。よく刺されます。
先月、友人が母校の大学で将来の夢があった方が良いか、無くても良いかについての講演をしたみたいです。そこで今回は、僕も将来の夢の有無について考えてみました。
結論から言いますと、今の僕は将来の夢は無くてもやっていけるだろうと考えています。何故かというと、まず どんな将来を実現するにしてもその時々の「今」の積み重ねが将来を創っていきます。夢がある人はその夢に向かって今を積み重ねていけば良いと思います。
しかし、夢が無い人は今置かれた立場や状況、環境の中で出来ることをしっかりやっていけば良いと思います。一挙一動こだわろうと思えばこだわれることって日常で沢山ありますよね。例えば、洗濯物を丁寧に畳んだり、きれいな文字の書いてみたり、元気に挨拶してみたり。それで良いと思います。何か人とは違う特別なことや凄いことは必須ではないです。誰でもやっているような簡単なことで良いんです。
そのうち好きなことや やりたいことなど夢が明確になったとします。日常で培ってきた取り組みが基盤となって夢へ通じる取り組みを支えてくれます。だから、夢が無いからといって立ち止まる必要はないんですよ。つまらないことはないんですよ。焦ることはないんですよ。夢が有っても無くても自分が今できることを今精一杯やっていけば良いだけです。